2010年8月29日日曜日

「千の風になって」の原詩にタイトルをつけてみました

まだまだ暑いですが,2010年の夏の終わりかけています。今年の夏も,たのしく勉強できました。「学びながら歳をとる」古代のギリシアの民主制の基礎を築いたソロンの言葉です。この言葉の重みとたのしさを感じることのできる毎日です。「千の風になって」の原詩には,タイトルがついていません。今までいいタイトルが思いつかなかったのですが,10日ほど前に突然思いつきました。それは「生と死について」というものです。「千の風になって」の原詩を,新しい題と新訳でたのしんでいただけるとうれしいです。


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《生と死について》
          マリー・E・フライ著
吉田 秀樹訳

私のお墓の前で泣かないでくだい
そこに私はいません
眠ってなんかいません

私は吹きわたる千の風の中にいます
私は静かに舞い落ちる雪の中にいます
私はやさしく降りそそぐ雨粒の中にいます
私は熟した穀物が咲き誇る畑の中にいます

私は朝の静けさの中にいます
私は弧を描いて飛ぶ美しい鳥の優雅な流れの中にいます
私は夜ふりそそぐ星の光の中にいます

私は咲き誇る花の中にもいます
私は静かな部屋の中にもいます
私はさえずる鳥たちの中にもいます
私は愛しきものひとつひとつの中にいます

私のお墓の前で泣かないでくだい
そこに私はいません
死んでなんかいません

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2010年7月12日月曜日

はやぶさ調査中です

京阪奈学研都市にある国会図書館に来ています。今日は一日はやぶさのことを調べます。イオンとは何か?プラズマとは何か?ロケットの推進力はどのような仕組みで生まれるのか?などを調べでるつもりです。成果があればまた報告します。

2010年7月11日日曜日

授業プラン《はやぶさの旅》第2回授業の結果報告です

昨日の土曜日(7月10日)は,御室科学教室の日でした。
教師時代の保護者の方を中心に集まっていただいて,
もう6年続いています。

昨日は,《はやぶさの旅》改訂第3版で授業しました。

自分で書いておきながら,最後のページを読んだら
涙がこぼれて,読めなくなりそうなので,
参加者の方に読んでもらいました。
読み終わった後,参加された方々から
自然発生的に「拍手」が生まれてきました。
6年間やっていて,初めてのことでした。
この授業プランに自信がわいてきた瞬間でした。

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評価
5(とってもたのしかった)     …7人
4(たのしかった)         …1人
3(たのしくもつまらなくもなかった)…0人
2(つまらなかった)        …0人
1(まったくつまらなかった)    …0人

感想を紹介します。
@宇宙開発に関しては,テレビ,新聞等で
知識を得る程度でしたが,科学のちから,すごい
研究の成果に感動しました。遠くで行われている
他人事がこんな身近に思えたので感謝致します。
こんな勉強を未来を担う子どもたちに一人でも
多く伝えていただくことを願っております。

@日本の技術の素晴らしさを改めて認識しました。
この〈はやぶさ〉の快挙を日本の子どもたちに
知ってもらって,一人でも多くの子どもたちに
夢や希望をもってもらえるようになればよいと思います。
「素晴らしい授業」でした。

@〈はやぶさ〉はテレビや新聞でいろいろ見ていましたが,
今日詳しく聞くことができてよかったです。日本人をすごいと
思う〈はやぶさ〉でした。

@集中した時間がもてました。〈はやぶさ〉はとても
興味ある授業で楽しかったです。

@《はやぶさの旅》のお話,とても感心しました。
先生の講義は,素晴らしいです。ありがとうございました。

@夢が広がります。空を見上げた時,
少しでも今日の事が頭にうかんでくると思います。

@予想ははずれっぱなし!宇宙のように,広大な単位と
相手には,頭がはたらきませんでした。それだけに
とても勉強になりました。

「課題もいただきました」
@「これからどうもっていこうかな」があまり見えてこなかった
のが残念。感動的な話なので,もう少し考える根拠に
なるようなものを工夫してほしい。(例えば,イオンエンジンの
推力の問題やスイングバイの仕組みなど。もう少し感動的に
持っていけるのでは?)

授業プラン《はやぶさの旅》第一回授業の結果報告です

先週の金曜日(7月9日),京都市内のある小学校の
家庭教育学級の講師を頼まれて
1時間半話をしてきました。
テーマは,
「たのしい夏休みの自由研究」です。

授業プラン《はやぶさの旅》の2版を授業させていただきました。
20人の保護者の方に参加していただきました。
評価は,

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5(とってもたのしかった)     …15人
4(たのしかった)         … 4人
3(たのしくもつまらなくもなかった)… 1人
2(つまらなかった)        … 0人
1(まったくつまらなかった)    … 0人

という結果でした。
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感想も書いていただきましたが,
個人情報に関することもあるので,
掲載は断念します。

2010年7月8日木曜日

大阪工業大学田原研究室を訪問しました

 田原先生の研究室を訪問しました。教えていただいたあまりの情報の多さに今,圧倒されています。時間をかけて整理して,少しずつこのブログで紹介していきます。
 
 研究室で,僕は田原先生にこんな質問をしました。
「ワールドカップで,日本がベスト16に入って,日本中が喜んでいますが(僕も喜んでいます),今回のはやぶさの成功は,宇宙開発競争というワールドカップで優勝したくらいの価値があるのではと思っているのですが,先生はどう思われますか?」
 田原先生は「私もそう思います」と答えられました。ひょっとしたら,一回の優勝ではなく,何回か連続して優勝したくらいの価値があるのではないでしょうか。そのためにも,さらに研究が進むことを願います。
 僕も,授業プラン《はやぶさの旅》の作成を通して,はやぶさの成し遂げたことの意義が,子どもたちに少しでも正確に伝わるように,さらに研究を積み上げていきたいです。

2010年7月6日火曜日

授業プラン《はやぶさの旅》[質問1]

 昨日授業プラン《はやぶさの旅》第2版が完成しました。少しずつこのブログに載せていきますので,読んでいただけるとうれしいです。イオンエンジンの箇所がまだ書けていませんが,明日大阪工業大学で,イオンエンジンの噴射実験を見せていただきますので,それを見れば,少しは書けるかもしれません。イオンエンジンを実際に動かしていただく田原先生には,感謝の言葉もありません。

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授業プラン《はやぶさの旅》第2版

〈はやぶさ〉の旅
7年の旅を終えて,〈はやぶさ〉は,宇宙から戻ってきました。惑星の石や砂やガスが入っている可能性をもったカプセルを,無事に地球に届けた後,自分自身は燃え尽きてしまいました。〈はやぶさ〉本体が燃える光は,オーストラリアの上空を明るく照らしました。いくつものトラブルを乗り越えての帰還に,世界中が驚きました。
[質問1]
下の写真を見てください。これが〈はやぶさ〉が7年をかけて,行って戻ってきた惑星〈イトカワ〉です。〈イトカワ〉は,糸川英夫という人の名前から付けられています。糸川という人は,「日本のロケット開発の父」と言われる人です。では惑星〈イトカワ〉は,糸川英夫が発見したのでしょうか。それとも外国の人が発見したのでしょうか。それとも糸川英夫以外の日本人が発見したのでしょうか。
予 想
 ア.糸川英夫が発見した。
 イ.外国の人が発見した。
 ウ.糸川英夫以外の日本人が発見した。



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2010年7月5日月曜日

「目で見る天文学」から「目で見ない天文学」へ

 昨日の続きをどう書くかをずっと迷っていました。僕自身がわからないことだらけなので,暗闇を手探りで歩く状態です。そしたら,今朝二条城の周りを歩いていたら,突然「書き始めの部分」がふっと浮かんできました。浮かんできた通りに書いてみます。

 「目で見る天文学」から,「目で見ない天文学」へ

 科学的な天文学を初めた人,実はこれもガリレオなのですね。彼は,オランダのあるレンズ職人が発明した望遠鏡を初めて天体に向けました。そしたら,月には山があり,太陽には黒点があり,木星には衛星があることがわかりました。天体は完全な神ではなかったということです。それ以来,「目で見る天文学」が始まりました。しかし,では目で見えるもの,つまり「光とは一体なんだと思いますか?」しかし,それがわかるためには,「電磁波とは何か?」がわらなければなりません。しかし,これがよくわからない問題なのです。
 「光とは何か?」「電磁波とは何か?」

 こういう問題を「実体論的な問題」といいます。しかし,よくわからないのです。そういう時には,「現象論的に課題を設定すること」が有効です。「電磁波とは何か?」がわからなくても,私たちに日常的に電磁波に頼って,便利な生活を送っています。電磁波を分類すると次のようになります。


     ---中波(ラジオの電波)
     ーーー短波(ラジオの短波放送) 
  電波 ---超短波(テレビの電波)
     ---マイクロ波(携帯電話や電子レンジで使われている)
  
  赤外線

  可視光線

  紫外線

  X線

  γ線


 こういうものをまとめて「電磁波」と定義しているわけです。私たちが目で見ている世界は,電磁波の世界の本の一部分だということになります。
 このことが分かった時から,「電波天文学」が始まったといいわけです。ここまで書いてきて,自分自身がとてもすっきりしました。

2010年7月4日日曜日

銀河系の自転

 太陽が地球の周りを回っているのではなく,地球が太陽の周りを回っていることに,初めて気づいたのは古代ギリシアのアリスタルコスという人でした。私が翻訳をすすめているエピクロスの影響を受けた人です。しかし,古代ギリシアローマの滅亡とともに,その発見は闇へ葬られてしまいました。アリスタルコスの本を読んだコペルニクスが再度「地動説」を発表するのに2000年かかりました。
 しかし,その太陽が銀河系の中心にあるのではなく,かなり端の方にあることに人類が気付くのに,200年もかかっていないと思います。多くの間違いや悲劇を引き起こしながら,やはり人類は少しずつ進歩しているのでしょう。
 昨日は,その「銀河系自体が自転していること」を知りました。驚きました。知っている人にとっては,常識なのかもしれませんが,私にとっては驚きでした。「知らないってことは,素晴らしいことです」 
 では,地球は24時間で自転していますが,銀河系はいったいどれくらいの時間をかけて自転していると思いますか。
 実は,約2億年かかって一回まわるというゆっくりしたものです。しかし,太陽は中心から遠く離れているために,秒速250kmの速度で回っているそうです。秒速ですから,時速になおすと,
 250×60(1分は60秒)×60(1時間は60分)=90.0000(90万km)

 時速90万kmで銀河系の周辺を回っている太陽 
 その太陽の周りを回っている地球や<イトカワ>

 そんな気の遠くなるような空間を7年かけて,
60億kmの旅をおえて戻ってきた<はやぶさ>。授業プラン《はやぶさの旅》の対する私の思いは,熱くなる一方です。しかも,それがエピクロスやその親友ストラトン,そしてその弟子アリスタルコスにつながる研究であることに気付くことができ,古代ギリシアの伝統の上で仕事ができている今の状況を「たのしい」と思えます。感謝の気持ちでいっぱいです。
 昨日このブログを見ていただいた方は,55人を超えています。ありがとうございます。「見ていただくことが時間の無駄にならないように」していく責任を感じています。
 これから二条城を一周していきます。早朝の二条城はとってもきれいです。しかも,名誉ある無血革命「大政奉還」が実現した場所でもありますので。勝海舟や坂本竜馬や小松たてわきに思いをはせながら。

2010年7月3日土曜日

静止衛星の苦労

授業プラン《はやぶさの旅》に関連したことを勉強しているおかげで,たのしいことがわかってきました。私は今まで「静止衛星はただ,静止している」と思っていたのですが,そうではなかったようです。ただ静止しているように見える静止衛星には,実はいろんな力がかかっています。
1…太陽の微弱な引力
2…月からの微弱な引力
3…薄いとはいえ若干存在する空気の抵抗
4…地球がほんの少し楕円型をしているための影響

ということで,静止衛星は,絶えず
「姿勢制御」「軌道制御」
の必要に迫られています。つまりしばしばエンジンを使う必要があるということです。ここで一番の問題は,エンジンの耐用年数ではないそうです。一番の問題は,「燃料の量」なのです。
そういった意味でも,今回の<はやぶさ>に積まれたイオンエンジンの燃料キセノンは,従来の10分の1の重さで同じ働きをするそうです。静止衛星の耐用年数を飛躍的に高めるというわけです。
イオンエンジンンの素晴らしさが,たのしく伝わったでしょうか。

2010年7月2日金曜日

授業プラン《はやぶさの旅》

京都市内のある小学校での模擬授業が終わりました。
みなさん大変お忙しい中での授業だったので,参加者は2人と少なく,感想文を書いてもらう時間もなかったですが,授業プランに対する評価はとてもよかったと思います。授業している僕自身が,とてもたのしく授業できました。課題は,「はやぶさの軌道をどう説明するか?」「イオンエンジンとは何か?」そして「ロケットが前に進め仕組み?」です。
 昨日授業寸前に「〈はやぶさ〉が〈イトカワ〉を目指す目的とは」という文が思い浮かびました。実際に授業で読んでみると,参加者の方から,「ホー,そうだったのですか」という声が上がりました。授業プランを作る醍醐味ですね。その文章を紹介します。
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〈イトカワ〉を目指す目的
 〈はやぶさ〉のチームの人たちは,どんな目的をもって〈イトカワ〉を目指したのでしょうか。実は,〈イトカワ〉は,46億年前に地球や月と同じ頃に誕生しました。しかし太陽や月のような大きな星は,引力が強いので内部がとけてしまい,重い物質が中心部へと沈んでしまいました。もうその物質を調べることができなくなりました。ところが,〈イトカワ〉は,小さな星なので内部がとけることもなく,誕生当時のままの状態を保ってくれているのです。だから,〈イトカワ〉を調べると,地球や月の誕生の頃が様子がわかるのではないかと期待されています。
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2010年6月30日水曜日

授業プラン《はやぶさの旅》

授業プラン《はやぶさの旅》がいい感じになってきました。〈はやぶさ〉のように,私もいくつもの壁を乗り越え,地球へ向かって邁進中です。仮説実験授業の全国大会が今年は石川県で7月末にあります。そこで全国発表する予定です。それにむけて,明日京都市内のある小学校で模擬授業をします。感想文を書いてもらいますので,またこのブログでアップします。
 今一番こまっているのは,〈はやぶさ〉に搭載されたイオンエンジンがどうように推進力を発揮するのかが,伝わってこないことです。どなかた詳しい方はおられませんか。それから,ちょっと驚いたことがひとつ。ロケットの推進力を「反動」で説明している本が多い(特に児童書はほとんどそうなっている)のですが,この説明は「間違っているのではないか」という気がしています。もっと納得のいく説明を考えています。それがうまくいくと「たのしい授業」になりそうです。全国の学校でつかってもらえるように,顔晴ります。

2010年6月20日日曜日

今日の読書日記「ヒトラー誕生の謎」

「ヒトラーが,なぜ誕生し,
そしてなぜ600万のユダヤが
殺されなければならなかったのか」

これは,同じ現象の再発を防ぐためにも
解決されることが必要な問題ではないでしょうか。
『1千の風』問題から,この問題にたどりつくとは
予想もしていず,驚いています。
そして,実はこの問題は「クリスマスの誕生」
「古代のギリシア文化の滅亡」
という問題ともつながっているのです。

解決には時間がかかりそうです。
しかし,やるに値する問題です。
仮説実験授業を生み出された板倉先生から
重要なアドバイスをいただきました。
「ヒトラー誕生を謎にしている一番の理由は
映画『サウンドオブミュージック』ではないか」
というアドバイスです。
 一体どういうことなのか。
もう少し調べてからまた報告します。
ただ今授業プラン≪はやぶさの旅≫の作成が
たのしい段階なので,それが完成してからに
なります。

2010年6月14日月曜日

今日の読書日記「ヒトラー誕生の謎」

『千の風になって』がヒトラーの脅威から逃げてきたユダヤ人女性のために書かれたということがわかってきたので,以前から気になっていた「ユダヤ人問題」についても,もう少し勉強する必要を感じています。僕の先生は,〈板倉聖宣〉という人なのですが,その板倉が次のようなことを言っています。

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僕のヒトラー問題についての最終的な結論は,〈ドイツをめぐる他の国々がドイツをいじめすぎた〉と。〈他の国々がドイツをいじめすぎたので,国家主義がドイツ人の心をすごく支配した〉と。そして,〈そのリーダーであるヒトラーが,それなりに賢くて有能であった〉と。
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 確かに,第一次世界大戦の敗戦国となったドイツには,莫大な賠償金が科せられ,翌年から始まった賠償金返済の後すぎに,国内にゼネストがおこり,国民の間には不安と不満が高まっています。ヒトラーが徐々に支持を伸ばしていくのは,確かにこの後なのです。『千の風になって』という研究テーマに,僕に3つの研究テーマを与えてくれそうです。
(1)ヒトラー誕生のなぞ
(2)ユダヤ人問題の歴史
(3)原子論の歴史
 この3つ,それぞれが重要な研究テーマです。なにげなく始めた『千の風になって』研究が,さらに勉強を必要とする研究になっています。これからの研究がたのしくなってきました。

2010年6月9日水曜日

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第21話

●日本での広がりについて
 この詩が,日本で広がるのに最も貢献した人は,テレビタレントのデーブ・スペクターという人です。彼は,友人の坂本九という歌手が飛行機事故(1985年「御巣鷹山」の事故)で亡くなった時,葬儀の中でこの詩を読むように葬儀委員長に頼みました。葬儀委員長の永六輔は,デーブ・スペクターの申し出を了承し,実際に葬儀の中でマリーの詩を読みました。マリーの詩は,遠く離れた日本でも,多くの人たちに感動をもたらしました。またデーブ・スペクターの友人に,南風椎(はえしい)という人がいました。マリーの詩をデーブ・スペクターに紹介された南風椎(はえしい)は,自分でその詩を翻訳し,1995年に『1000の風-あとに残された人へ』(三五館)という本を出版しました。
 この本を読んで感動した人の中に,新井満という人がいました。自身歌手でもある新井は,より自由に訳して,曲をつけ,その歌に『千の風になって』というタイトルをつけました。自分で歌った30枚の自家製のCDも作りました。その内の1枚が朝日新聞の記者に渡り,朝日新聞に紹介されることによってうわさとなり,多くの歌手が歌い始めました。
 いろいろな歌手たちに歌われたのですが,2006年に秋川雅史という歌手によって歌われ始めました。この歌手による歌『千の風になって』は,多くの人の支持を集め,同年のNHK紅白歌合戦で歌われました。そしてそのことによって,さらに多くの人に知られるようになったという訳です。

                    (第Ⅱ部終わり)

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第20話

●すでに行われていた調査活動
 アメリカで,そしてイギリスで,「詩の作者は誰なのか」という問題が大きくなっていきました。しかし,実はその問題が大きくなるよりも7年前から,あるテレビ番組の中でマリーの詩が読まれたことをきっかけとして,作者探しは行われていました。しかもテレビ局の「詩の作者を探しています」という報道に対して,マリー自身が友だちに勧められて,「失礼とは思いますが,その詩は実は私が書いたものです」と名乗り出ていたのです。
 放送局は,「マリーの申し出が真偽かどうかの調査」を,リチャード・K・シュールという著名な記者に依頼しました。シュールは,数年間の調査の後,「マリーがこの詩の作者であることは間違いない」と確信しました。そして1983年6月に,詩の真の作者としてのマリーのインタビュー記事が発行されていたのでした。ただ「この詩の作者は誰なのか」という問題が,当時はそれほど多くの人々の関心をひかなかったために,シュールの記事自体が注目されなかったです。スペースシャトルの事故の後の追悼記事,そしてクミンスの遺書を通して,「詩の作者は誰か」ということが,アメリカでそしてイギリスで,大問題になっていったという訳です。
日本で出版された井上文勝著『「千の風になって」紙袋に書かれた詩』(ポプラ社)は,この問題に多くの人が納得できる回答を与えてくれる,世界で最も権威のある本だと言えるのです。英語に訳されて,世界の人々に読まれる日が待ち望まれます。

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第19話

●マリーの詩がイギリスで最も愛される詩に
 クミンスが亡くなってから6年後の1995年に,イギリスで最も愛される詩を決める「英詩の日」というテレビのイベントが行われました。候補となった100の詩の中から一番好きな詩を選んで視聴者に投票してもらい,投票数が一番多いものを,「イギリスで最も愛される詩」と認定する
という取り組みでした。1万2千件の応募がありました。
しかし発表の当日,誰も予想しなかったことが起こりました。発表前のイベントとして,クミンスの父が,息子が残した遺書に書かれていたマリーの詩を朗読しました。そうしたら,それを見ていた視聴者から,マリーの詩のコピーが欲しいというリクエストが殺到しました。その数は,3万件に達したそうです。
 翌年,コンペの結果を集約した本が出版されました。その中で編者は,「クミンスが残した作者不明のこの詩こそ,今のイギリスで最も愛されるものである」と述べました。

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第18話

●イギリスでの噴出
 ちょうど同じ頃,イギリスでもマリーの詩が地下から噴き出し,多くの人に知られるような事件が起こりました。スペースシャトルの爆発事故から3年後の1989年3月8日,イギリスで道端に仕掛けられた爆弾が爆発し,2人のイギリス兵士が死にました。2人の兵士のうちの1人ステファン・J・クミンスは,死を予感していたのでしょうか,両親宛ての遺書を用意していました。その遺書は,2枚の紙に書かれていました。1枚目には,「先に死ぬ僕を許してください。そして僕を殺したものたちを許してあげてください」と書かれていました。そして残るもう1枚に,マリーの詩が書かれていたのです。
 この遺書のことは新聞でも報道され,多くの人がクミンスの葬儀にかけつけました。ミンクスの遺灰は,彼の遺志に従って,葬儀場の花園の中にまかれました。

2010年6月7日月曜日

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第17話

●地下水のように流れ続けたマリーの詩
しかし書き変えられた詩は,多くの人に支持されました。時代を超えて,多くの人たちが,愛する人の死に直面した時,マリーの詩を読み続けました。作者不明のまま,詩は読みつがれたのです。それはまるで大地の下を流れる地下水のように人々の心をとらえ,人から人へと語り継がれました。
 しかし,地下水はいつかどこかで地表に吹き出すものです。マリーの詩も,ついに地表に吹き出す時がきました。それは,1986年のことでした。詩が生まれてから,54年が立っていました。この年にアメリカで大きな事故が起こりました。1月28日,スペースシャトルが離陸直後に爆発し,乗組員7人が全員死亡しました。アメリカ中,いや世界中が悲しみに包まれました。
 この事故の後,アメリカのある著名なジャーナリストが,いくつかの新聞に,7人の死者の追悼のために,「作者不明の不朽の名作」として,マリーの詩を紹介しました。大きな反響がありました。感動の声とともに,「その詩の作者を知っています」「その詩の作者は私です」という投書が,多数寄せられました。これをきっかけとして,この詩の作者探しが始まりました。いち時期,「この詩はネイティブアメリカンの祈りの言葉である」と騒がれたこともありましたが,すぐにそうではないことが明らかになりました。

2010年6月6日日曜日

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第16話

●書きかえられたマリーの詩
 では,大きな変更を受けたマリーの詩は,どのようになったのでしょうか。『千の風になって」紙袋に書かれた詩』(ポプラ社)の中に,井上さんの詩が載っていますので,それをそのまま紹介します。8ページの原詩と見比べながら読んでみてください。

私のお墓の前でたたずみ泣かないで
私はそこにいません 眠っていません

私は吹きわたる千の風
私は雪の面のダイヤモンドのきらめき
私はたわわな麦畑にそそぐ陽の光
私はやさしい秋の雨
あなたが朝の静けさのなかで目覚めるとき
私は上空へと急旋回する
静かな鳥たちの羽根の音
私は夜を照らすやさしい星々

私のお墓の前でたたずみ嘆かないで
私はそこにいません 死んでいません

出典
井上文勝著『千の風になって」紙袋に書かれた詩』
(ポプラ社)

2010年6月5日土曜日

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第15話

●消えてしまった前置詞「in」
2つの文が消えてしまった以上に,大きな変化をもたらしたのが,前置詞「in」が消えたことです。マリーの原詩には,I am の後にほとんどの場合,inが続きます。4つの文だけ,inがありませんが,これはinがあまりに続きすぎると,音読した時にきつくなるために,省略されたのであって,基本的にはすべての文にinがあると考えていいと思います。ということは,このamは,「~にいる」という意味で使われています。「~である」という意味でもなく,新井さんの訳のように「~になって」という意味でもありません。「そんなことどうでもいいではないか」と思われるかもしれませんが,実はこの違いはとても大きいのです。この違いについても,第3部でお話ししたいと思います。

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実は,この他にも書き変えられた2個所があります。1つは,「私は静かに舞い落ちる雪のなかに
います」が「私は雪の面のダイヤモンドのきらめき」に変わりました。もう1つの変更は,原詩に
はなかった「あなたが朝の静けさの中で目覚めるとき」の個所が付け加えられました。
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2010年6月4日金曜日

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第14話

●消えてしまった2つの文
 では,マリーの原作から,どの文が消えてしまったのでしょうか。私の考えでは,この2つの文は詩全体の中で,重要な位置を占めていると思えて仕方がないですが,その文がなくなってしまいました。どの文が消えてしまったか予想がつきますか。
 消えてしまったのは,次の2つの文です。

その1…「私は静かな部屋の中にもいます」
その2…「私は愛しきものひとつひとつの中にいます」

 消した人は,どうしてこの2つの文を消したのでしょうか。もちろん今となっては誰にもわかりません。予想するしかないのですが,あなたはどんな理由を予想しますか。またマリー自身は,どんな思いを込めてこの2つの文を書いたのでしょう。そんなことを考えながら,もう一度マリーの原詩を読んでみてください。(私の仮説は,第3部で紹介する予定です)

2010年6月3日木曜日

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第13話

(第2部)
●書きかえられたマリーの詩
 マーガレットは、マリーの詩をとても気に入りました。職場の人に見せると、職場の人たちも「とてもいい詩だ」とほめてくれました。職場の仲間の一人が「その詩をポストカードに印刷して多くの人に読んでもらおう」と提案しました。多くの人が賛成しました。そのための費用は、職場のみんなのカンパですぐに集まりました。数百枚のポストカードが印刷されることになりました。
 しかし、ここで問題が起こりました。ポストカードにするには、マリーの詩は少し長すぎたのです。そこで大事な文が2つ省略されました。さらに前置詞「in」がすべて消されました。しかも,印刷されたポストカードには、作者の名前が書かれませんでした。「なんでそんなひどいことを!」と思うかもしれません。しかし、マーガレットの職場の人たちは、マリーの詩がいい詩だとは思えても、まさかその詩が後に世界中の人から支持されるようになるほどの詩とは思えなかったのです。軽い気持ちで行ったことが,のちに世界中を巻き込んだ大問題になるとは,マーガレットの職場の人たちには,想像もできなかったのです。

2010年6月2日水曜日

『2300年前に書かれた手紙』ーエピクロスからあなたへー

第56章 最初の文
「しかし,原子があらゆる大きさをもつと考えることは,現実にあるものの性質の違いを説明する助けにはならないよ。あらゆる大きさをもつを考えると,その原子が目に見えるほどの大きさになる場合があるからね。そんなことはありえないよ。原子が目に見えることがあるなって,考えることすらできないんだよ」

(コメント)
 歴史的に考えるとこの文は,とっても重要な文章です。「原子論」というアイデアを初めて出したのは,
レウキッポスとデモクリトスなのですが,彼らの考えた原子は目に見える大きさをもつものでした。エピクロスはそれを否定したわけです。同じ「原子」のイメージでも,その内容はまったく異なることになります。エピクロスの「原子」は,宇宙の無限や原子の数の無限とつながるイメージをもつものです。歴史的には,デモクリトスのアイデアを盗作したと非難されるエピクロスですが,同じ原子でも,その内容はまったく新しいものだったのです。「原子論におけるオリジナリティーを主張する」エピクロスを,私は支持したいと思います。

2010年6月1日火曜日

『2300年前に書かれた手紙』…エピクロスからあなたへ…

第55章 後半
「だからといって,原子があらゆる大きさをもつと考えてはいけないよ。それは,感覚が提供する事実と違うことになるからね。 もちろん,原子がいろいろな大きさをもつことは間違いないね。そういうふうに考えた方が,感情や感覚がもたらす事実の説明がより簡単になるからね」

(コメント)
 今の言葉ではないのです。2300年前だということをいつも心にとめて読んでください。イエス誕生300年前の手紙でした。イエスもきっとエピクロスの手紙を読んだことでしょう。「イエスがエピクロスことを知っていた」という仮説は,私に重要な研究テーマです。ちなみに,キリスト教の教理を作ったと言われるオリゲネスとアウグスティヌスは,エピクロスの本をかなり読んでいます。

2010年5月30日日曜日

『2300年前に書かれた手紙』ーエピクロスからあなたへー

〈翻訳作業について〉
 この翻訳は、2つの英語訳と1つのフランス語訳そして1つのドイツ語訳を参考にしながら、古典ギリシア語から直接訳しています。研究途上にありますので、日々翻訳された日本語が変動することをご了解の上、たのしく読んでいただければうれしいです。

2010年5月29日土曜日

今日の読書日記「内田樹さんのこと」

今朝の朝日新聞でこんな内容の記事を見つけました。
内田さんは,神戸女学院大学教授で,村上春樹さんの解説者としてしばしばマスコミに登場する人ですが,若い頃にはこんな苦労があったのですね。

2010.5.29付け 朝日新聞「be on Saturday」より
【インタビュー】

*教務部長をやり,現在,入試部長という激職ですね。
(内田)
ここには拾ってもらったという恩義がある。東大を出た後,都立大の助手を長く務めていたが,まあ飼い殺しの状態。どこか職がないかと,北は北海道から南は沖縄の琉球まで,三十数校も応募したが,8年間落ち続けた。フランス思想,ユダヤ文化専攻なんて学者を採る大学はない。40歳になっても駄目だったら学者の道はあきらめようと思っていたが,直前に,ここに採用してもらった。
 周囲の学者世界は,もううんざりだった。索莫として水気のない世界。うわさや情報が飛び交い,悪口大好きで,切れ味鋭く他人を切って捨てる。バブル期の東京の雰囲気も好きでなく,神戸に来たからといって,あせりや都落ちなんで感覚はまったくなかった。

2010年5月21日金曜日

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第12話

●映画館での出会い…幸せな結婚生活…
 新しい職場でマリーは,一人の男性と出会います。クラウド・フライという人です。彼もまた,貧しい家庭の人でした。しかも,数年前に流行したインフルエンザのために,妹や弟たちを失っていました。故郷バージニア州の貧しい家族を助けるために,小学校3年で学校をやめて,ボルチモアに働きに来ていました。ある大きな製鉄所で働いていました。彼もまた,ボルチモアで一人ぼっちだったのです。
 マリーが好きになったクラウドは,同じ映画を何回も見に来るようになりました。それで,不思議に思ったマリーが話しかけたことから,二人の交際が始まりました。似たような境遇の二人は,すぐに打ちとけ合い,結婚を考えるようになりました。そして,1930年8月マリー24歳,クラウド26歳の時に,クラウドの故郷バージニアで,結婚式をあげました。クラウドの親戚に囲まれただけのささやかな結婚式でした。〈イーノック・プラット自由図書館〉の司書さんを招待するというマリーの夢は,実現しませんでした。
 決して豊かとは言えない暮らしでしたが,それでも二人は,仲良く幸せにくらしていました。そんな幸せな暮らしの中で,ある日クラウドが,一軒の家の玄関の前の階段にたたずむ悲しそうなマーガレットに出会って,声をかけたという訳です。そしてそのことが,世界中の人から愛されるようになった詩『ザ・ポエムofマリー・E・フライ』の誕生へとつながっていくことになります。
 詩が誕生したのは,結婚から2年後の1932年,マリー26歳の時でした。

(第Ⅰ部終わり)

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第11話

●「黒い木曜日」とよばれる世界中をおそった大不況
 そういう生活が10年以上も続いた1929年10月24日,マリーが23歳の時,突然ニューヨークの株が大暴落しました。その影響は,世界中に飛び火し,世界中の街々が失業者であふれました。ボルチモアでは,自死(自裁)を選ぶ人も多かったそうです。
 人々は苦しい現実の中で,夢と安らぎを求めて,映画館に殺到しました。不況の中,映画館は繁盛しました。マリーは,ヒッポロドーム劇場という,時にはコンサートや演劇も上演するような大きな映画館の窓口の仕事を得ることができました。それまでつとめていたデパートが不況で経営が苦しくなりました。そこでマリーも新しい仕事を探さなければなかったかもしれません。
しかし,コンサートや演劇が上演されることもあるこの劇場は,マリーにとっては憧れの職場でした。愛読書『ロミオとジュリエット』の上演を見たかもしれません。

2010年5月11日火曜日

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第10話

●困難を極めた就職活動
 昼間仕事を探しながら,夜はその図書館で読書をするという日々が続きました。しかし就職活動は困難を極めました。12歳の少女を雇ってくれる所などなかったからです。
 マリーは重大な決意をします。「一生に一度の嘘をつこう。14歳と偽ろう」 
 あるデパートがレジ係を募集していたのですが,14歳以上という条件があったからです。マリーは14歳と偽って,採用試験を受けました。普段の勉強の成果が発揮されました。採用試験を優秀な成績で合格し,年齢を偽ったこともばれることなく,ついに仕事をつくことができたのです。 
 しかし,貧しい暮らしは続きました。お金にゆとりのないマリーは,夜と休みの日は,〈イーノック・プラット自由図書館〉に通いつめました。
 16歳当時の愛読書は,『ロミオとジュリエット』(シェークスピア著)や『嵐が丘』(エミリ・ブロンテ著)でした。

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第9話

●〈イーノック・プラット自由図書館〉
 この図書館は,イーノック・プラットという人の寄付によってできた図書館です。イーノックさんも貧しい中努力を重ねて,新しい事業に成功した人でした。彼は成功をもたらしてくれたボルチモアへの感謝の気持ちを込めて,この図書館設立の資金を寄付しました。彼は図書館を作るにあたって,次のことを大事にしてほしいと訴えました。
 
「この図書館はすべての人に開かれている,貧し人にも,豊かな人にも。人種も肌の色も問われない」
                
 この言葉は,この図書館の一番大事な決まりとなりました。この言葉に基づいて運営されているこの図書館は,貧しくて身よりのないマリーに,どれだけの幸せな時間を提供してくれたことでしょう。しかも,
この図書館には親切な司書さんもいました。毎日夜になると図書館にやってくる12歳の孤児に,読書の相談にのってくれる人がいたのです。実現しなかったとはいえ,マリーは自分の結婚式に,「イーノック・プラット図書館のその司書さん」を招待したかったのですから。
 そんな司書さんがいたこの図書館は,マリーにとって,唯一の心休まる場所となりました。マリーは,その司書さんのアドバイスを受けながら,この図書館にある本をほとんど読みました。

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第8話

●ボルチモアへ
 細い糸でつながった街が,一つだけありました。ボルチモアです。マリーは,ジョンが亡くなる前に,何度かボルチモアの親戚の家をジョンと一緒に訪れたことがあったのです。「その親戚の家を頼ってボルチモアへ行こう」,マリーはそう考えました。
 安い給料をやりくりして,やっと旅費と少しのお金をためることができたマリーは,ある朝,誰にも見送られることもなく,一人ぼっちでボルチモアを目指しました。12歳の時のことでした。
 ボルチモアの遠い親戚の家にたどり着いたマリーでしたが,その家も貧しくしかもたくさんの子どもがいたので,一緒に住むことはできません。親戚の家の紹介でマリーは,出稼ぎにきている女性労働者のための下宿に住むことになりました。貧しい住まいだったことでしょう。しかし,大きな幸運がマリーを待っていました。下宿の前の道路の向かい側に,〈イーノック・プラット自由図書館〉という名前の市立図書館があったのです。

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第7話

●突然の不幸-ジョンの死-
 しかし,そんなマリーを大きな不幸が襲いました。勉強を教えてくれていたジョンが,狩猟中に流れ弾に当たって,死んでしまったのです。もう誰からも,両親のことを聞けなくなってしまいました。マリーは,本当に一人ぼっちになってしまったのです。
 そんなマリーを更なる不幸が襲います。日ごろから,マリーのことを嫌っていたメイが,マリーを一人残して,自分の実家に帰ってしまったのです。それまで住んでいた家も売られてしまい,住むところがなくなった10歳のマリーは,「家政婦」として3カ月ごとに家々を渡り歩く生活をすることになりました。朝から晩まで炊事・洗濯・掃除をし,食事は台所の隅で一人食べるという暮らしが続きました。
 そんな生活が一年続いた後,ある大きな家で長期間働くことになりました。しかし,その家での扱いは,本当にひどかったようです。マリーは,その家から逃げ出すことを考え始めます。しかし,一人ぼっちのマリーに行くところがあったのでしょうか。

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第6話

●マリー・E・フライの生い立ち
 マリーは,両親の名前を顔も知らない孤児でした。3歳の時,生まれた街の駅から汽車に乗せられ,車掌に預けられて,遠い親戚の家まで連れていかれたのです。しかしその親戚も縁の薄い親戚で,仕方なしにマリーを引き取ったのでした。おじさんのジョンは,まだマリーをかわいがってくれたのですが,奥さんのメイは,「血がつながっていない」ということで,マリーにきつくあったようです。
 4歳の時に,アメリカ中で国勢調査が行われました。しかしマリーは,その調査の時に家の奥に隠されました。マリーの存在を認めれば,いずれ養子にするしかないことを恐れたメイの意見が尊重されました。その結果マリーは,幼稚園にも,小学校にも行けなくなったのです。

 マリーをかわいそうに思ったジョンは,六歳半になったある日マリーにこんなことを言いました。

「お前のパパやママが誰だったのか,何が起こったのか。もう少し大きくなって物事がわかるようになったら,ちゃんとすべてを教えてあげよう」

 そして「私がお前に字を教えてあげよう」と付け加えました。他の子どもたちのように,勉強したくてたまらなかったマリーは,早く両親のことが知りたい気持ちもあって,一生懸命勉強しました。すぐに字が読めるようになったマリーのために,ジョンは近くの図書館で,ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』を借りてきてくれました。その本のとりこになったマリーは,繰り返しその本を読みました。

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第5話

●ささやかなお祝いごと
 しかし,その悲しみも時間とともにいやされていき,時折マーガレットの顔にも,笑顔がみえるようになりました。そんなある日のことです。ちょうどその日は,マーガレットがマリーの家にやってきた記念日でした。マリーは,ささやかなお祝いをすることにしました。ごちそうをつくるために,マリーは紙袋に一杯の食料を買ってきました。そして,二人で,お祝いの料理を作り始めました。
 マーガレットが紙袋から,マリーが買ってきた「サクランボ」を取り出した時のことです。突然その「サクランボ」が入っているビンを抱きしめたマーガレットの瞳から涙があふれました。「どうしたの?」というマリーの問いに,「これ,ママの大好物だったの」と答えたマーガレットは,「ごめんさい」という言葉を残して,二階へと駆け上がっていってしまいました。
 どんななぐさめの言葉も,今のマーガレットをはげますことはできないと感じたマリーは,日ごろから《生と死》について自分が感じていたことを,詩につづることにしました。そしてその詩が少しでも励ましになればと願って,マーガレットにプレゼントすることを思いつきました。そこで,紙袋の端っこ切り取って,その紙に,次のような詩を書いたのです。

ザ・ポエムofマリー・E・フライ
                      訳・吉田秀樹

私のお墓の前で泣かないでくだい。
そこに私はいません。
そこに眠ってなんかいません。

私は吹きわたる千の風の中にいます。
私はやさしく舞い落ちる雪の中にいます。
私はやさしく降りそそぐ雨粒の中にいます。
私は熟した穀物が咲き誇る畑の中にいます。

私は朝の静けさの中にいます。
私は円を描いて飛ぶ美しい鳥の優雅な流れの中にいます。
私は夜ふりそそぐ星の光の中にいます。

私は咲き誇る花の中にもいます。
私は静かな部屋の中にもいます。
私はさえずる鳥たちの中にもいます。
私は愛しきものひとつひとつの中にいます。

私のお墓の前で泣かないでくだい。
そこに私はいません。
そこに眠ってなんかいません。

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第4話

●新しい生活

 マリーに助けられたマーガレットの暮らしは,たのしいものでした。親切なマリー夫婦のおかげで,新しい仕事も見つかりました。優しいボーイフレンドもでき,マーガレットのアメリカでの新しい生活が始まりました。
 しかしそうなると,ドイツにおいてきた母親のことが気になります。心配するマーガレットを見かねたマリーは,マーガレットと一緒に,母親の様子を調べ始めます。ヒットラーに支配されたドイツは,混乱していました。母親の様子は,なかなか分かりません。困り果てたマリーたちは,休みの日には近くの港まで出かけて,ヨーロッパからやってくる人たちに,「だれかマーガレットのお母親さんのことを知りませんか?」と尋ねて歩いたりもしました。
 そんなある日,ドイツから一通の手紙が届きました。その手紙には,次にように書かれていました。

「問い合わせ人はすでに死亡していることが確認された。ドイツ政府」

 この知らせを聞いたマーガレットは,悲しみのあまり玄関の床に崩れ落ちました。その「悲しみ」と「寝たきりの母親をドイツに残してきたことに対する後悔の気持ち」は,計り知れないほど大きかったことでしょう。

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第3話

●マーガレット,マリーの家に住むことに
 マーガレットの話を聞いたマリーは,すぐにマーガレットを引き取ることにしました。マーガレットをやとっていた家の人も,マーガレットのことをよく思っていなかったので,喜んでその求めに応じました。
 こうしてマーガレットは,マリーの家に住むことになりました。しかし,マリーの家も決して裕福ではありません。空いている部屋があったわけでもなかったのですが,生まれてくる子どものために用意されていた部屋がありました。前の年に卵巣の腫瘍を摘出する手術を受けていたマリーは,医者から「もう子どもを産めないでしょう」と言われていました。そこで,その部屋をマーガレットに提供することにしたのです。

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第2話

●その女性の話

 その女性は,ユダヤ人でした。ユダヤ人と言うのは,ある民族のことです。しかしただ民族というわけでなく,ユダヤ教という宗教を信仰すれば,だれでもユダヤ人になることができます。ユダヤ教というのは,キリスト教を生み出すもとになった宗教なのですが,結果的にはそのユダヤ教を信じる人たちがイエス・キリストを殺すことになってしまいました。それ以来,キリスト教を信じる人々の間では,「イエス・キリストを殺したユダヤ人」ということで,嫌われることが歴史上幾度かありました。そのユダヤ人を最も嫌ったのが,ドイツのヒットラーと言う人でした。
ヒットラーがいた頃のドイツは,大変な状態でした。第一次世界大戦という,世界中が2つに分かれて戦った戦争に負けたドイツには,ばく大な賠償金が科せられ,国民は不幸のどん底にいました。そしてさらに,世界的な大不況が起こり,ただでさえ苦しいドイツ国民を更に苦しめるという状態になっていました。ヒットラーは,そんな状態のドイツでどんどん力をつけ始めていました。国民の不満をうまく利用することに成功し,「我々の不幸の原因は,ユダヤ人にある」と宣伝し始めたのです。そして自分たちの国からユダヤ人を追い出すことを計画していました。いや追い出すだけなく,殺害することさえ,考えていたのです。
 後年その計画は実行に移され,150万人のユダヤ人の子どもたちと450万人のユダヤ人の大人たちが,計画的に殺されました。



 ボルチモアのある家の玄関に座っていたそのユダヤ人女性の名前を,マーガレットといいます。マーガレットとその母親は,もともとはドイツにいました。しかしこのままドイツにいては,いつ殺されることになるかわからないと心配していました。そこで,ドイツを脱出して,アメリカに亡命することを考えました。ただ,大きな問題がありました。それは,母親が寝たきりで,一緒にアメリカに行くことができないということでした。マーガレットも,母親をおいてアメリカに行くことなど考えもしませんでした。しかし,娘の将来を心配した母親は,アメリカ行きを強く進めました。最初は母親をおいてアメリカに行くことに乗り気になれなかったマーガレットでしたが,余りの母親の勧めと増える一方のヒットラーの脅威に,ついにアメリカ行きを決意します。何十倍という試験に合格し,アメリカでドイツ語を教えるという仕事を得て,アメリカ行きを実現させました。「いつか母親をアメリカに呼び寄せる」という夢を描いていたにちがいありません。
 しかし,実際アメリカに来てみると,アメリカでの暮らしは決してバラ色ではありませんでした。ドイツ語の教師として採用されたにもかかわらず,仕事の内容は家事や子どもの世話といったものでした。またマーガレットがユダヤ人とわかってからは,雇い主のドイツ人は,さらにきつくマーガレットにあたるようになりました。
 アメリカでの暮らしも楽ではなく,ドイツに置いてきた母親のことも心配で,暗い表情で家の前に座っていたという訳です。

『千の風になって』という歌が私たちに届くまでの話・第1話

【お願い】
 この話は,2010年2月に出版された井上文勝さん著『「千の風になって」紙袋に書かれた詩』(ポプラ社)を基に書かれています。井上さんの素晴らしい本の内容を,「学校の教材として子どもたちに伝えたい」という私の思いで,書き始めたものです。今現在井上さんの了解は取れていません。完成の暁には,きちんと井上さんのご了解がいただければと思っています。そういう事情ですので,この話の引用は,井上さんの了解がとれるまで,お控えください。

●ある女性のこと 

今から100年以上も前の,アメリカでの話です。アメリカにボルチモアという街があります。その街のある一軒の家の玄関の階段の所に,一人の女性が座っていました。エプロンをしているので,その家の「家政婦」のようです。とても悲しそうな顔をしています。その悲しそうな表情が,ある男の人の目にとまりました。男の人は,「こんにちは」と声をかけたのですが,それ以上は何も言えませんでした。男の人は,家に帰って奥さんにその女性のことを伝えました。話を聞いた奥さんは,心配のあまりすぐに,女性を訪ねることにしました。
 奥さんの名前を,マリー・E・フライといいます。実はマリー自身も,以前に同じ仕事をしていて,何度も悲しい思いをしたことがあったのです。マリーが女性を訪ねて声をかけると,女性は不安そうな表情を見せました。そこでマリーは女性を安心させるために,「さっきあなたに声をかけた男性は,私の夫ですよ」と説明しました。そのことを知った女性は,安心したようで,「何がそんなに悲しいのですか」というマリーの質問に,心を開いて話してくれるようになりました。

2010年5月6日木曜日

EFS-Sakura(松ボックリのアクセサリー)作品番号NO .1を作りました






作品番号 EFS-Sakura No.1


桜をイメージして作ってみました。

もう桜は散ってしまったのですが…。


これで,4つの作品が完成しました。

2010年4月29日木曜日

EFS-Olive(松ボックリのアクセサリー)作品番号NO .1を作りました




作品番号 EFS-Olive N0.1
ネーミングに一番苦労しました。スワロフスキーの名前はエメラルドなのですが,その名前がどうも好きになれなくて。かと言って,「Green」で余りにも味気なくて。そんなこんなで悩んでいたら,ある人が「Olive がいいのではないですか」という貴重なアドバイスをしてくれました。EFSが(古代ギリシアの教育学者エピクロスが最初の星という意味=Epicurus is first star)古代ギリシアに関係しているので,Oliveはぴったりです。いい名前がついたと思っています。

2010年4月28日水曜日

EFS-Black(松ボックリのアクセサリー)作品番号NO .1を作りました







個人的に好きな黒で作ってみました。
ペンダントにもなるのですが,
チョーカーとして使ってもらったほうが,
この作品のよさが発揮されるような
気がしています。
黒い服を着られる時にぴったりです。

2010年4月27日火曜日

EFS-Sirius(松ボックリのアクセサリー)作品番号NO .3を作りました







作品番号 EFS-Sirius N0.3
ネーミングって大事ですね。イアリング,チョーカー,そしてバレッタの
3点セットにSiriusという名前を付け始めた途端,それまで枯渇しかかっていた
創作意欲が一気に湧いてきています。「たのしい!」という感じです。
作品2と作品3,同じSiriusでも,微妙にスワロフスキーの色を変えてみました。
どちらのSiriusの方が気に入ってもらえるか教えていただけるとうれしいです。

2010年4月25日日曜日

EFS-Sirius(松ボックリのアクセサリー)を作りました




作品番号 EFS-Sirius No.2

今日は,4月25日です。尾崎が亡くなった日ですね。
特につながりはないのですが,久しぶりにEFSを作ってみました。
ペンダント,イアリング,バレッタ
この3点セットで「Sirius(シリウス)」と名付けました。
見ていただけるとうれいしいです。

2010年4月19日月曜日

今回の調査のまとめ

家にもどってきました。
さすがに新幹線の中では,ほとんど寝ていました。
この2日間の活動を無駄にしたくないので,
できるだけ詳しくまとめておきたいと思います。

******************************************************************
「1992年4月24日(金)から25日(土)にかけての
                尾崎豊の足跡」

 6時30分  会社を出発(この日は給料日でした)
 7時30分  後楽園でひらかれたキリンビールのパーティに出席
        この会場は,後楽園の敷地に仮設で作られたテント
        会場だったようで,今はもう見ることはできない
        この会場を設計した人が,アルバム『誕生』の制作に
        かかわった人でもあったので,そのつながりで尾崎も招待された
 9時30分  奥さんとその友人4人で東京グリーンホテル後楽園(今の名前)
        に移動
        そこでたまたま(?)高校時代の友人(3人グループ)と会う
10時30分  その3人グループと一緒に六本木にむけて出発
        (直接,芝浦に行ったという説もある)
10時50分頃 六本木到着
??????  六本木出発(本当に六本木に行ったかどうかも,どの店に行ったのかもわからない)
        芝浦到着(当時ジュリアナというディスコ近くにあったディスコに入る。今は駐車場になっている)

 1時頃    夫人へ電話
 2時05分  北千住に帰るタクシーに乗車
        タクシーのなかで,突然牛丼が食べたくなり,そこに行く行かないで運転手と口論になる
 2時40分頃 タクシー運転手,北千住の派出所の前に車をとめる
        警官の仲立ちで和解する
 3時15分  徒歩で曙町の自宅マンションを目指す
        しかし,途中で民家に侵入する
 3時30分  全裸姿で暴れているところを発見される
 4時30分  その家の人が警察へ通報
 5時10分  警察に保護される
 6時08分  白髭橋病院へ運ばれる        

 25日が土曜日ということは,北千住派出所近くの市場が休みだった可能性がある。ということはそこに連れ込まれて暴行を受けた可能性は残る。

**********************************************************************
今品川です。これから新幹線に乗ります。大事なことがわかりません。探していたディスコはジュリアナの近くにあったそうです。ということは今日の午前一時頃私が時間を持て余してビールを飲んでいた場所だったことになります。偶然とはいえ、尾崎の体内に麻薬が入った場所を突き止められたということになります。やっぱり今回の行動は無駄ではなかったようです。今から京都に帰ります。
朝6時です。二時間しか寝てませんが体調はいいです。結局芝浦からはタクシーの都合で一時間半早くなってしまいましたが、今回の試みは意味があったと思います。深夜たたずんだあの場所のことを忘れることはないと思います。私の思い出のなかで、尾崎豊は生きています。追体験しようと思う人はいないと思いますが、距離をイメージしていただくためにタクシー代をお伝えします。水道橋から六本木2800円、六本木から芝浦1700円、芝浦から北千住5120円でした。

「亡くなった人は生きている人の心にあるうちは生きている。忘れられた時にその人は死ぬ」(魯迅の言葉)

 魯迅の言葉が真実ならば,尾崎が死ぬことは永遠にないような気がしています。
 そのために,「事実を確定しておきたい」と思っています。
 
徹夜で尾崎の後と思っていたのですが、さすがに疲れました。今JR千住駅近くのホテルにいます。明日に備えて少し寝ます。尾崎は今頃芝浦を出発して,最期の時をむかえます。
その場所にはすぐにつきます。今その場所に立っています。ここにたどりついた頃から覚せい剤の副作用が出始めたようです。厳粛な気持になります。しかし隣の市場は灯りが灯っていて、「この市場の中で暴行を受けたのではないか」という最初の仮説がゆらいでいます。

北千住の交番に着きました

北千住千住大橋の横ある交番につきました。今1時過ぎです。尾崎がここに着いたのが2時40分なので1時間半早く着いてしまいました。しかし運転手さんから貴重な話が聞けました。運転手さんも六本木から芝浦そして北千住のコースに違和感を感じるそうです。北千住に帰るにしては不自然な感じがするとのことでした。今から最後に裸になって暴れていた家まで歩きます。その途中のどこかで誰かに暴行を受けたのではないかと思えて仕方がありません。
タクシーが拾えそうもないなあと思っていたら、隣にタクシー運転手の方が座られました。これも何かの縁です。その方に海岸通りのディスコを探してもらって、いよいよ最終目的地の北千住に向かいます。

芝浦で一人さまよっています

あんまり何にもないのでなか卯に入ってカンビールを飲んでいます。お店の人に「昔この辺りにディスコがありましたか」と尋ねたら「となりがジュリアナというディスコでした」と教えてもらいました。そういう場所だったのですね。しかし尾崎が行ったところはジュリアナではありません。もっと港よりには今でもディスコがあるそうです。そこまで行ってみる必要がありそうです。ここで2時まで待機です。しかし次のタクシーがつかまるのでしょうか。それくらい車も走っていません。

深夜の芝浦はさびしい

今芝浦につきました。近い場所ですね。しかし何もない所です。辺りはマンションだらけです。あのにぎやかな六本木から芝浦に移動すること自体に違和感を感じています。この違和感が感じられただけでも、今回の行動には意味が会ったと思います。

2010年4月18日日曜日

無事六本木を脱出

刺激が強すぎる街六本木を今出発しました。これからいよいよ芝浦に向かいます。タクシーの運転手さんには、昔ディスコがあった所とお願いしましました。こんなんでたどり着くことができるのでしょうか。

おまけの出来事

まだ六本木です。この街は不思議な街ですね。ウロウロしてたら大きな人に会いました。大きな人だなあと思ってよく見たら、チェフォンマンさんでした。写真を取らせてもらいました。おまけの出来事でした。

東京タワーが見えました

まだ六本木です。東京タワーがきれいです。

六本木到着

六本木につきました。タクシーを降りた途端に外人に声をかけられました。噂に聞いていた六本木です。

グリーンホテルを出発します

ただ今10時半です。グリーンホテルに戻ってきました。この後の尾崎の行動には二つの説があります。直接芝浦に行ったという説と六本木にまず行ってから芝浦に行ったという説です。今日はまず六本木を目指します。六本木のあるバーで二人組の男性とトラブルになったという話もあります。顔にはくも膜下出血をひきおこしたほどの傷痕がありました。この二人に殴られたのでしょうか。

最初のパーティ会場発見できず

何人かの人に「キリンビールビル、知りませか」尋ねたのですが、誰も知らないとのこと。仕方がないので、水道橋で京都発天下一品のラーメンを食べています。しかし,粉っぽくてあまりおいしくないです。やはり天下一品のラーメンは,本店よりもおいしい京都二条駅前が最高においしいです。

グリーンホテル前9時30分

今9時半です。グリーンホテルの前に立っています。この時間に尾崎は妻とその友達と一緒にここにやってきました。一回のレストランで一時間ウイスキーを飲みました。私が飲んでも仕方ないので10時30分までそれまでいたキリンビールのビルを探してみます。

行動開始です

葬送の自由をすすめる会が終わりました。いよいよ行動開始です。まずグリーンホテル水道橋を目指します。

グリーンホテルを確認

JR水道橋駅につきました。支部長会議の場所も水道橋、尾崎が亡くなった日の行動開始地点も水道橋。偶然の一致です。添付の写真は当日尾崎が9時過ぎに飲んでいたグリーンホテル水道橋です。

東京にむけて出発です

1992年4月25日尾崎が亡くなった日に起こったことを知りたくて 9時16分京都発の新幹線に乗ります。葬送の自由をすすめる会の全国支部長会議に出席するためです。会議が午後9時に終るので、その後尾崎が亡くなった日と同じ行程を同じ時間にたどってみようと思います。何か新しい発見があるでしょうか。

2010年4月14日水曜日

『千の風研究』その3「兵士クミンスの手紙」の最後の文

イギリスの兵士クミンスが書いた,「父への手紙」は次の文で終わっていました。

「そして,僕を殺したものたちをゆるしてあげてください。
 永遠に。          ステファン・ジェフリー・クミンス」


 すごい言葉ですね。『千の風研究』を始めたおかげで,私は
一人の無名な兵士クミンスに出会うことができました。
 クミンスに出会えてよかったと思います。

 しかし,このクミンスの手紙が,『千の風』をイギリス中に知らせることに
なるのです。

2010年4月12日月曜日

『千の風研究』その2「兵士クミンスの手紙」

 井上文勝さんが書かれた『「千の風になって」紙袋に書かれた詩』(ポプラ社,2010年)から引用させていただきます。
 クミンスさんの手紙は,2枚だったそうです。
 1枚目は,父に宛てたもの。そこには次のようなことが書かれていました。

*************************************************************************************
お父さんへ
 これは,この間,最後にお会いした折に差し上げるべきでした。でも,そんなことをしてママと僕の最愛のエピィを悲しませたくなかったのです。わかっていただけますね。
 お父さんはもちろん,愛する他の家族同様に,僕は彼女を愛していたのです。
 こんな僕をゆるしてください。

                        ステファン・ジェフリー・クミンス

*************************************************************************************

そしてもう一枚,「僕が愛したすべての方々へ」と書かれた後に,『千の風』(日本では『千の風になって』で有名)の詩が書かれていました。



*************************************************************************************
 実はこのブログを読まれた方に注目してほしくて,私はクミンスさんの最初の手紙の最後の文をあえて省略しています。実はクミンスさんは,
「こんな僕をゆるしてください」
とお父さんに書いた後,注目にする一文を付け加えています。それが,どんな文なのか予想がつきますか。
 私が所属する仮説実験授業研究会の大事な原則は「予想なければ認識なし」です。答えを聞かれる前に,少し予想していただいた方が,クミンスさんのメッセージにこめられた思いがより伝わりそうな気がしています。よろしければ,少しお考えください。

 ヒント
 「そして,○○○○○○をゆるしてあげてください」

と続いています。

2010年4月11日日曜日

『尾崎豊研究』その3

2つの本をもとに,前日の尾崎の行動を振り返ってみると,不思議な事実に気づく。

不思議なこと(1)
会いたくなかった友人Tにたまたまパーティーで会った不思議さ

不思議なこと(2)
その友人に,また近くのホテルで偶然会う不思議さ

不思議なこと(3)
会いたくなかった友人と六本木,そして芝浦まで行く不思議さ

不思議なこと(4)
芝浦で飲んだお店の不可解さ。ある情報では,そのお店は薬物が飲めるお店として知られていた

不思議なこと(5)
尾崎の体内から検出された致死量の2.5倍という覚せい剤の多さ。
専門家によれば,自覚的に飲めるものではない量だそうだ
とすれば,誰かに飲まさせたことになる。
覚せい剤の反応は2時間後に出るといわれている。
裸になって暴れだした時期を,反応の出始めの時間と考えると,
飲んだ(飲まされた?)時間は,1時半ということになって,
芝浦のこのお店が飲んだ(飲まされた?)場所ということになる
    
仮説…この店で尾崎は,店員とけんかをするのだが,その原因は飲んだアルコールの中に
   覚せい剤が入っている事を気づいたことではないのだろうか。
   尾崎の最期の言葉は「勝てるかな」だった
   これは明らかに飲まされた覚せい剤の反応に対して発せられた最期の言葉だった
            
仮説…かせつだらけの仮説だが,こういうふうに考えていくと,つじつまが合う。

*そして今新しいことを思いついた。
そもそも尾崎はなぜ,3人と一緒に芝浦まで行ったのか。
実は尾崎には断れない事情があったようだ。
このことについては,もう少し慎重に話をすすめたい。
尾崎の名誉に関することなので。

2010年4月10日土曜日

『尾崎豊研究』その2

手許にある尾崎の本で,亡くなる前日の様子を詳しくそして正確に報告してくれているのは
次の2冊です。
この2冊の本をもとに,死亡前日の尾崎の足跡を詳しくたどってみましょう。

基礎文献
A…吉岡忍著『放熱の行方』(講談社・1993)
X…永島雪夫著『尾崎豊覚醒剤偽装殺人疑惑』(オンタイムズ・1995)


午後5時…足立区千住曙町のマンションから渋谷区にあるアイソトープにむかう

  6時…会社到着。この日は事務所の給料日

6時30分…仕事を終えた後、後楽園で開かれる予定のパーティーに参加する
     そこで妻と合流する パーティー会場で高校時代の友人Tとその連れとその友人に会う
     (尾崎自身は,Tと会うことを避けていた)

9時すぎ…パーティー終了

9時30分…夫人ともう一人の女性とGホテルへ。そのホテルでまたTたちと会う。1時間ほど酒を飲む
     その後Tたち3人と六本木まで飲みに行く

10時30分…六本木で飲む

?時?分…その後芝浦のクラブ(OBAR)へ

1時30分…友人、自宅にいる妻へ電話。尾崎も話す

2時05分…OBAR付近からタクシーに乗る

2時40分…タクシー運転手とトラブルになり千住大橋派出所へ

3時15分…派出所を出た尾崎は,徒歩で自宅に帰りはじめる
      (このあたりは尾崎のジョギングコース)

3時30分…全裸姿の尾崎が小峰さんの庭で発見される

4時30分…小峰夫人警察へ通報

5時10分…警察に保護される

5時30分…やめさせられたマネージャー鬼頭氏へ警察から通報が入る。鬼頭氏不在。

5時55分…鬼頭氏(奥さん?)から父健一へ連絡が入る

6時00分…健一氏より長男康氏へ連絡が入る

6時08分…尾崎白髭橋病院到着、救急処置室へ

6時20分…尾崎が暴れたので鎮痛剤が打たれる

『尾崎豊研究』その1

『尾崎豊研究』その1

 4月18日(日)に「葬送の自由をすすめる会」の
支部長会議に出席するために東京に行きます。
 その機会を利用して,尾崎が亡くなる前の晩の
様子を少しでも知るために,同じ時刻に同じ場所
を同じような交通手段を使ってたどってみようと
思います。
 不可解な尾崎の死について,何か新しい発見が
あることを期待して。

『千の風』研究その1

『千の風』(日本では『千の風になって』という歌でで知られています)研究

 『千の風』(a thousand winds)という詩があります。

日本では,『千の風になって』という歌で多くの人に知られるようになりました。
世界でこの詩が知られるようになったきっかけがあります。そのきっかけも
『千の風』と同じように多くの人に知ってほしい話なのです。そこで私は,
『千の風』研究を,その話から始めたいと思います。

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 1989年3月北アイルランドで一台のイギリス軍の車が爆発しました。
乗っていた二人の兵士が即死しました。イギリス軍の発表によれば
「アイルランド共和軍が道路端に仕掛けた爆弾によるもの」でした。

 2人の兵士のうちの一人,24歳のステファン・j・ミンクスは,
死を予感していたのでしょうか,もし僕が死んだときにあけてください」という
メッセージをそえてた一通の手紙を父に残していました。
その手紙から,話が始まります。

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2010年3月7日日曜日

「千の風」の作者について

今年の2月7日にポプラ社から『「千の風になって」紙袋に書かれた詩』
という本が出版されました。
今日手に入ってので読み始めたら,とってもいい内容で
一気に読めました。
読みながら,何度も胸が熱くなりました。
この本の内容でほぼ間違いないのではと思えるようになりました。
この本によれば,
「千の風」の著者は
マリー・E・フライさんということになります。
アメリカはボルチモアの人です。
2004年に99歳で亡くなられています。
この人の生涯自体が
また素晴らしく,この人生あってこその
この詩という感じします。
貧しい中で近くの図書館で本を読まれたそうで,
その図書館の本はすべて読んだとご本人が語られています。

2010年2月11日木曜日

ルクレチウスを知っていますか?

ルクレチウスという人のことを聞いたことがありますか。
実は『宇宙を作るものアトム』(事物の本性)という本をを書いた人である
ということ以外は,まったくわかっていません。

イエスキリストよりも,100年前に生まれた古代ローマ人です。
その著書『宇宙を作るものアトム』は,
エピクロス(紀元前300年代に原子論を確立し,大衆のものとした人)賛歌の本です。
私も相当なエピクロスファンですが,ルクレチウスにはとてもかなわないと思います。
それくらいのエピクロスファンです。
今その本を「見て」います。本当は「読みたい」のですが,
なかなか手ごわい本で,今のところ「見る」のが精いっぱいです。

今日も「見て」いたら,次のような一節を見つけました。

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それゆえに,困難な中にこそ人を見るべきであり,
逆境のうちにこそ人柄を知るべきである。
なぜならその時にこそまことの声が胸の奥底からほとばしり,
仮面ははがれ,真実だけがあとに残るのだから。
                                第三巻・55
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 この一節を読まれて,何かを思い出しませんか。
私は,映画「ネバーエンディングストーリー・第一話」の
門の前にたたずむ主人公の場面を思い出しました。
あの映画を作った人も,ルクレチウスの本を読んだのではないかと
思えました。もしそうなら,改めてルクレチウスの影響の
深さを感じています。
だから,もう少しルクレチウスの本を,
「見続け」たいと思っています。

映画「ネバーエンディングストーリー・第一話」を見てない方には
訳のわからない話でした。申し訳ありません。

2010年2月10日水曜日

フランス語勉強中です

明日はカナダの人とエピクロスをフランス語で読む日です。彼は日本語が得意ではないので、英語とフランス語のチャンポンの会話で刺激的な日です。今日ふっと感じたのですが、フランス語で読むエピクロスは素晴らしいですね。フランス語のリズミカルな発音がとても心地よくエピクロスの雰囲気に合っているような気がします。

2010年1月22日金曜日

景色最高です

もうすぐ諏訪湖に着きます。二階建てバスから見える景色は素晴らしいです。長旅の疲れ吹き飛んでしまいます。

東京へ向かっています

中央高速に入りました。景色が一変しました。二階建てバスの最前列は快適です。古代ギリシャの本を読んだり景色を楽しんだりしながら東京へ向かっています。今日の発表原稿のテーマは「アルキメデスの本がたどった道」です。読んでもらった人にとってたのしい話になっているかどうかたのしみです。