2010年4月29日木曜日

EFS-Olive(松ボックリのアクセサリー)作品番号NO .1を作りました




作品番号 EFS-Olive N0.1
ネーミングに一番苦労しました。スワロフスキーの名前はエメラルドなのですが,その名前がどうも好きになれなくて。かと言って,「Green」で余りにも味気なくて。そんなこんなで悩んでいたら,ある人が「Olive がいいのではないですか」という貴重なアドバイスをしてくれました。EFSが(古代ギリシアの教育学者エピクロスが最初の星という意味=Epicurus is first star)古代ギリシアに関係しているので,Oliveはぴったりです。いい名前がついたと思っています。

2010年4月28日水曜日

EFS-Black(松ボックリのアクセサリー)作品番号NO .1を作りました







個人的に好きな黒で作ってみました。
ペンダントにもなるのですが,
チョーカーとして使ってもらったほうが,
この作品のよさが発揮されるような
気がしています。
黒い服を着られる時にぴったりです。

2010年4月27日火曜日

EFS-Sirius(松ボックリのアクセサリー)作品番号NO .3を作りました







作品番号 EFS-Sirius N0.3
ネーミングって大事ですね。イアリング,チョーカー,そしてバレッタの
3点セットにSiriusという名前を付け始めた途端,それまで枯渇しかかっていた
創作意欲が一気に湧いてきています。「たのしい!」という感じです。
作品2と作品3,同じSiriusでも,微妙にスワロフスキーの色を変えてみました。
どちらのSiriusの方が気に入ってもらえるか教えていただけるとうれしいです。

2010年4月25日日曜日

EFS-Sirius(松ボックリのアクセサリー)を作りました




作品番号 EFS-Sirius No.2

今日は,4月25日です。尾崎が亡くなった日ですね。
特につながりはないのですが,久しぶりにEFSを作ってみました。
ペンダント,イアリング,バレッタ
この3点セットで「Sirius(シリウス)」と名付けました。
見ていただけるとうれいしいです。

2010年4月19日月曜日

今回の調査のまとめ

家にもどってきました。
さすがに新幹線の中では,ほとんど寝ていました。
この2日間の活動を無駄にしたくないので,
できるだけ詳しくまとめておきたいと思います。

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「1992年4月24日(金)から25日(土)にかけての
                尾崎豊の足跡」

 6時30分  会社を出発(この日は給料日でした)
 7時30分  後楽園でひらかれたキリンビールのパーティに出席
        この会場は,後楽園の敷地に仮設で作られたテント
        会場だったようで,今はもう見ることはできない
        この会場を設計した人が,アルバム『誕生』の制作に
        かかわった人でもあったので,そのつながりで尾崎も招待された
 9時30分  奥さんとその友人4人で東京グリーンホテル後楽園(今の名前)
        に移動
        そこでたまたま(?)高校時代の友人(3人グループ)と会う
10時30分  その3人グループと一緒に六本木にむけて出発
        (直接,芝浦に行ったという説もある)
10時50分頃 六本木到着
??????  六本木出発(本当に六本木に行ったかどうかも,どの店に行ったのかもわからない)
        芝浦到着(当時ジュリアナというディスコ近くにあったディスコに入る。今は駐車場になっている)

 1時頃    夫人へ電話
 2時05分  北千住に帰るタクシーに乗車
        タクシーのなかで,突然牛丼が食べたくなり,そこに行く行かないで運転手と口論になる
 2時40分頃 タクシー運転手,北千住の派出所の前に車をとめる
        警官の仲立ちで和解する
 3時15分  徒歩で曙町の自宅マンションを目指す
        しかし,途中で民家に侵入する
 3時30分  全裸姿で暴れているところを発見される
 4時30分  その家の人が警察へ通報
 5時10分  警察に保護される
 6時08分  白髭橋病院へ運ばれる        

 25日が土曜日ということは,北千住派出所近くの市場が休みだった可能性がある。ということはそこに連れ込まれて暴行を受けた可能性は残る。

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今品川です。これから新幹線に乗ります。大事なことがわかりません。探していたディスコはジュリアナの近くにあったそうです。ということは今日の午前一時頃私が時間を持て余してビールを飲んでいた場所だったことになります。偶然とはいえ、尾崎の体内に麻薬が入った場所を突き止められたということになります。やっぱり今回の行動は無駄ではなかったようです。今から京都に帰ります。
朝6時です。二時間しか寝てませんが体調はいいです。結局芝浦からはタクシーの都合で一時間半早くなってしまいましたが、今回の試みは意味があったと思います。深夜たたずんだあの場所のことを忘れることはないと思います。私の思い出のなかで、尾崎豊は生きています。追体験しようと思う人はいないと思いますが、距離をイメージしていただくためにタクシー代をお伝えします。水道橋から六本木2800円、六本木から芝浦1700円、芝浦から北千住5120円でした。

「亡くなった人は生きている人の心にあるうちは生きている。忘れられた時にその人は死ぬ」(魯迅の言葉)

 魯迅の言葉が真実ならば,尾崎が死ぬことは永遠にないような気がしています。
 そのために,「事実を確定しておきたい」と思っています。
 
徹夜で尾崎の後と思っていたのですが、さすがに疲れました。今JR千住駅近くのホテルにいます。明日に備えて少し寝ます。尾崎は今頃芝浦を出発して,最期の時をむかえます。
その場所にはすぐにつきます。今その場所に立っています。ここにたどりついた頃から覚せい剤の副作用が出始めたようです。厳粛な気持になります。しかし隣の市場は灯りが灯っていて、「この市場の中で暴行を受けたのではないか」という最初の仮説がゆらいでいます。

北千住の交番に着きました

北千住千住大橋の横ある交番につきました。今1時過ぎです。尾崎がここに着いたのが2時40分なので1時間半早く着いてしまいました。しかし運転手さんから貴重な話が聞けました。運転手さんも六本木から芝浦そして北千住のコースに違和感を感じるそうです。北千住に帰るにしては不自然な感じがするとのことでした。今から最後に裸になって暴れていた家まで歩きます。その途中のどこかで誰かに暴行を受けたのではないかと思えて仕方がありません。
タクシーが拾えそうもないなあと思っていたら、隣にタクシー運転手の方が座られました。これも何かの縁です。その方に海岸通りのディスコを探してもらって、いよいよ最終目的地の北千住に向かいます。

芝浦で一人さまよっています

あんまり何にもないのでなか卯に入ってカンビールを飲んでいます。お店の人に「昔この辺りにディスコがありましたか」と尋ねたら「となりがジュリアナというディスコでした」と教えてもらいました。そういう場所だったのですね。しかし尾崎が行ったところはジュリアナではありません。もっと港よりには今でもディスコがあるそうです。そこまで行ってみる必要がありそうです。ここで2時まで待機です。しかし次のタクシーがつかまるのでしょうか。それくらい車も走っていません。

深夜の芝浦はさびしい

今芝浦につきました。近い場所ですね。しかし何もない所です。辺りはマンションだらけです。あのにぎやかな六本木から芝浦に移動すること自体に違和感を感じています。この違和感が感じられただけでも、今回の行動には意味が会ったと思います。

2010年4月18日日曜日

無事六本木を脱出

刺激が強すぎる街六本木を今出発しました。これからいよいよ芝浦に向かいます。タクシーの運転手さんには、昔ディスコがあった所とお願いしましました。こんなんでたどり着くことができるのでしょうか。

おまけの出来事

まだ六本木です。この街は不思議な街ですね。ウロウロしてたら大きな人に会いました。大きな人だなあと思ってよく見たら、チェフォンマンさんでした。写真を取らせてもらいました。おまけの出来事でした。

東京タワーが見えました

まだ六本木です。東京タワーがきれいです。

六本木到着

六本木につきました。タクシーを降りた途端に外人に声をかけられました。噂に聞いていた六本木です。

グリーンホテルを出発します

ただ今10時半です。グリーンホテルに戻ってきました。この後の尾崎の行動には二つの説があります。直接芝浦に行ったという説と六本木にまず行ってから芝浦に行ったという説です。今日はまず六本木を目指します。六本木のあるバーで二人組の男性とトラブルになったという話もあります。顔にはくも膜下出血をひきおこしたほどの傷痕がありました。この二人に殴られたのでしょうか。

最初のパーティ会場発見できず

何人かの人に「キリンビールビル、知りませか」尋ねたのですが、誰も知らないとのこと。仕方がないので、水道橋で京都発天下一品のラーメンを食べています。しかし,粉っぽくてあまりおいしくないです。やはり天下一品のラーメンは,本店よりもおいしい京都二条駅前が最高においしいです。

グリーンホテル前9時30分

今9時半です。グリーンホテルの前に立っています。この時間に尾崎は妻とその友達と一緒にここにやってきました。一回のレストランで一時間ウイスキーを飲みました。私が飲んでも仕方ないので10時30分までそれまでいたキリンビールのビルを探してみます。

行動開始です

葬送の自由をすすめる会が終わりました。いよいよ行動開始です。まずグリーンホテル水道橋を目指します。

グリーンホテルを確認

JR水道橋駅につきました。支部長会議の場所も水道橋、尾崎が亡くなった日の行動開始地点も水道橋。偶然の一致です。添付の写真は当日尾崎が9時過ぎに飲んでいたグリーンホテル水道橋です。

東京にむけて出発です

1992年4月25日尾崎が亡くなった日に起こったことを知りたくて 9時16分京都発の新幹線に乗ります。葬送の自由をすすめる会の全国支部長会議に出席するためです。会議が午後9時に終るので、その後尾崎が亡くなった日と同じ行程を同じ時間にたどってみようと思います。何か新しい発見があるでしょうか。

2010年4月14日水曜日

『千の風研究』その3「兵士クミンスの手紙」の最後の文

イギリスの兵士クミンスが書いた,「父への手紙」は次の文で終わっていました。

「そして,僕を殺したものたちをゆるしてあげてください。
 永遠に。          ステファン・ジェフリー・クミンス」


 すごい言葉ですね。『千の風研究』を始めたおかげで,私は
一人の無名な兵士クミンスに出会うことができました。
 クミンスに出会えてよかったと思います。

 しかし,このクミンスの手紙が,『千の風』をイギリス中に知らせることに
なるのです。

2010年4月12日月曜日

『千の風研究』その2「兵士クミンスの手紙」

 井上文勝さんが書かれた『「千の風になって」紙袋に書かれた詩』(ポプラ社,2010年)から引用させていただきます。
 クミンスさんの手紙は,2枚だったそうです。
 1枚目は,父に宛てたもの。そこには次のようなことが書かれていました。

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お父さんへ
 これは,この間,最後にお会いした折に差し上げるべきでした。でも,そんなことをしてママと僕の最愛のエピィを悲しませたくなかったのです。わかっていただけますね。
 お父さんはもちろん,愛する他の家族同様に,僕は彼女を愛していたのです。
 こんな僕をゆるしてください。

                        ステファン・ジェフリー・クミンス

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そしてもう一枚,「僕が愛したすべての方々へ」と書かれた後に,『千の風』(日本では『千の風になって』で有名)の詩が書かれていました。



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 実はこのブログを読まれた方に注目してほしくて,私はクミンスさんの最初の手紙の最後の文をあえて省略しています。実はクミンスさんは,
「こんな僕をゆるしてください」
とお父さんに書いた後,注目にする一文を付け加えています。それが,どんな文なのか予想がつきますか。
 私が所属する仮説実験授業研究会の大事な原則は「予想なければ認識なし」です。答えを聞かれる前に,少し予想していただいた方が,クミンスさんのメッセージにこめられた思いがより伝わりそうな気がしています。よろしければ,少しお考えください。

 ヒント
 「そして,○○○○○○をゆるしてあげてください」

と続いています。

2010年4月11日日曜日

『尾崎豊研究』その3

2つの本をもとに,前日の尾崎の行動を振り返ってみると,不思議な事実に気づく。

不思議なこと(1)
会いたくなかった友人Tにたまたまパーティーで会った不思議さ

不思議なこと(2)
その友人に,また近くのホテルで偶然会う不思議さ

不思議なこと(3)
会いたくなかった友人と六本木,そして芝浦まで行く不思議さ

不思議なこと(4)
芝浦で飲んだお店の不可解さ。ある情報では,そのお店は薬物が飲めるお店として知られていた

不思議なこと(5)
尾崎の体内から検出された致死量の2.5倍という覚せい剤の多さ。
専門家によれば,自覚的に飲めるものではない量だそうだ
とすれば,誰かに飲まさせたことになる。
覚せい剤の反応は2時間後に出るといわれている。
裸になって暴れだした時期を,反応の出始めの時間と考えると,
飲んだ(飲まされた?)時間は,1時半ということになって,
芝浦のこのお店が飲んだ(飲まされた?)場所ということになる
    
仮説…この店で尾崎は,店員とけんかをするのだが,その原因は飲んだアルコールの中に
   覚せい剤が入っている事を気づいたことではないのだろうか。
   尾崎の最期の言葉は「勝てるかな」だった
   これは明らかに飲まされた覚せい剤の反応に対して発せられた最期の言葉だった
            
仮説…かせつだらけの仮説だが,こういうふうに考えていくと,つじつまが合う。

*そして今新しいことを思いついた。
そもそも尾崎はなぜ,3人と一緒に芝浦まで行ったのか。
実は尾崎には断れない事情があったようだ。
このことについては,もう少し慎重に話をすすめたい。
尾崎の名誉に関することなので。

2010年4月10日土曜日

『尾崎豊研究』その2

手許にある尾崎の本で,亡くなる前日の様子を詳しくそして正確に報告してくれているのは
次の2冊です。
この2冊の本をもとに,死亡前日の尾崎の足跡を詳しくたどってみましょう。

基礎文献
A…吉岡忍著『放熱の行方』(講談社・1993)
X…永島雪夫著『尾崎豊覚醒剤偽装殺人疑惑』(オンタイムズ・1995)


午後5時…足立区千住曙町のマンションから渋谷区にあるアイソトープにむかう

  6時…会社到着。この日は事務所の給料日

6時30分…仕事を終えた後、後楽園で開かれる予定のパーティーに参加する
     そこで妻と合流する パーティー会場で高校時代の友人Tとその連れとその友人に会う
     (尾崎自身は,Tと会うことを避けていた)

9時すぎ…パーティー終了

9時30分…夫人ともう一人の女性とGホテルへ。そのホテルでまたTたちと会う。1時間ほど酒を飲む
     その後Tたち3人と六本木まで飲みに行く

10時30分…六本木で飲む

?時?分…その後芝浦のクラブ(OBAR)へ

1時30分…友人、自宅にいる妻へ電話。尾崎も話す

2時05分…OBAR付近からタクシーに乗る

2時40分…タクシー運転手とトラブルになり千住大橋派出所へ

3時15分…派出所を出た尾崎は,徒歩で自宅に帰りはじめる
      (このあたりは尾崎のジョギングコース)

3時30分…全裸姿の尾崎が小峰さんの庭で発見される

4時30分…小峰夫人警察へ通報

5時10分…警察に保護される

5時30分…やめさせられたマネージャー鬼頭氏へ警察から通報が入る。鬼頭氏不在。

5時55分…鬼頭氏(奥さん?)から父健一へ連絡が入る

6時00分…健一氏より長男康氏へ連絡が入る

6時08分…尾崎白髭橋病院到着、救急処置室へ

6時20分…尾崎が暴れたので鎮痛剤が打たれる

『尾崎豊研究』その1

『尾崎豊研究』その1

 4月18日(日)に「葬送の自由をすすめる会」の
支部長会議に出席するために東京に行きます。
 その機会を利用して,尾崎が亡くなる前の晩の
様子を少しでも知るために,同じ時刻に同じ場所
を同じような交通手段を使ってたどってみようと
思います。
 不可解な尾崎の死について,何か新しい発見が
あることを期待して。

『千の風』研究その1

『千の風』(日本では『千の風になって』という歌でで知られています)研究

 『千の風』(a thousand winds)という詩があります。

日本では,『千の風になって』という歌で多くの人に知られるようになりました。
世界でこの詩が知られるようになったきっかけがあります。そのきっかけも
『千の風』と同じように多くの人に知ってほしい話なのです。そこで私は,
『千の風』研究を,その話から始めたいと思います。

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 1989年3月北アイルランドで一台のイギリス軍の車が爆発しました。
乗っていた二人の兵士が即死しました。イギリス軍の発表によれば
「アイルランド共和軍が道路端に仕掛けた爆弾によるもの」でした。

 2人の兵士のうちの一人,24歳のステファン・j・ミンクスは,
死を予感していたのでしょうか,もし僕が死んだときにあけてください」という
メッセージをそえてた一通の手紙を父に残していました。
その手紙から,話が始まります。

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