2014年12月28日日曜日

〈ギリシアからインドへ〉

〈ギリシアからインドへ〉その1
『インド数学研究』(恒星社厚生閣)という本を読んでいます。
p399に、こう書かれています。

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インド数学のさまざまな要素の中には、外からインドに伝えられたものも少なからずあるが、文献の上ではっきりと実証できるものはそれほど多くはない。その点で三角法は例外的であり、ギリシアで生まれ、インドで育ちアラビアで発見したことを明瞭に跡付けることができる。それは三角法が天文学の一部として発展し、利用され、しかも常に具体的な数値を伴っていたからである。
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つまり、「数学、天文学において、古代ギリシアから古代インドへのパイプはつながっていた」ということになります。

とすれば、紀元400年代から500年代のインドの天文学者・数学者のアリヤバータが次のように言っている事実に対して、ギリシアの影響は、十分に考えられると私は思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

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万有引力の地動説に基づく太陽中心の宇宙モデルを提唱。
しかも、地球を含む惑星は、楕円軌道を持って太陽の周りを回っている
                                               出展ウキペディア「アリヤバータ」一部編集
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もし影響が考えられるならば、それはいったい誰の影響でしょうか。

2014年7月2日水曜日

ミョウバン研究日記

「歴史を消された島、サモス島」

歴史を消された島、サモス島には、
紀元前500年代、いったい何があったのでしょうか。

①ヘラ神殿
ゼウスの妻ヘラはサモス島で誕生したと言われています。そのヘラを祭る神殿です。古代ギリシア最大の神殿と言われていて、アテネのパルテノン神殿の4倍の広さがありました。

②エウパリノスのトンネル
水道を引くためのトンネルが掘られました。紀元前500年代のことです。長さ1kmのトンネルが両側から掘られ、出会い地点の誤差はわずかなものでした。

③巨大な城とその城壁が建設されました。城は全く残っていませんが、城壁は一部残っています。城壁の周囲の長さ6.4kmです。皇居の周囲5km、京都御苑の周囲4kmと比べるとその巨大さがしのばれます。これも紀元前500年代の建設です。

④何の痕跡も残っていませんが、大きな港が建設されました。

⑤大型青銅像の制作工場がありました。古代ギリシア最盛期の彫刻の多くは青銅製です。大型の青銅像の制作技術は、サモス島も工場で開発されました。

⑥エラシストラトスの医学校がありました。
【エラシストラトスの医学校の解説】
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屍体解剖や生体解剖を通してヘーロピロスの研究を発展させ、運動神経と交感神経とを明確に区別し、喉頭蓋や腸間膜の乳び菅を観察、脳の作用や心臓の弁膜の働き等について説明した。「全器官は、他の組織と3手段すなわち動脈・静脈・神経によってつながっている」と主張、ヒッポクラテス流の体液説を退け、デモクリトスの原子論とストラトンの真空論に基づいた独自の見解を述べた。「自然は一つとして無益なことをしない」と信じた彼は、全生理現象を自然的原因によって説明しようとし、薬物・下剤・瀉血の多用に反対して食事・入浴・運動などの養生法をすすめた。カテーテルを発明し、サモスに医学校を設立したとも伝えられ、その学派は後2世紀のガレーノスの頃まで栄えた。著書は4世紀にも、なお読まれていたが、引用断片以外は散逸した。
出典:松原國師『西洋古典学事典』(京都大学学術出版会、2010、京大文学部図)
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⑦美術学校もあったようです。というのも、初歩的遠近法を生み出したアガタルコスは、サモス島出身だからです。

ミョウバン研究日記

「古代ギリシアの伝統を受けついだ所にのみ、科学は誕生した」
板倉聖宣さんの言葉です。そんな古代ギリシアのことを研究しています。

研究者たちの間で、1つの大きな謎があります。それは、
「サモス島に関する情報が異常に少ない」
ということです。

確かにそうなのです。ある意味で、アテネやスパルタやミレトス、コリントスと言った都市以上に重要なサモス島(そこにはいくつかの都市が含まれる)であるにもかかわらず、その情報は非常に少ないのです。

しかし、このことは私にとっては「シメタ!」です。
なぜなら、古代ギリシアの原子論者エピクロスとその弟子で地動説提唱者のアリスタルコスが生まれ育った島こそ「サモス島」だったからです。
実は寓話作家のイソップもサモス島で育っています。
数学者のピタゴラスもサモス島で生まれ育っていますが、ピタゴラスは重要ではありません。


キリスト教の国教化以後、言論統制を強めるキリスト教会にとって、サモス島は歴史から抹殺したしたい島だったのです。そして実際、ほぼ抹殺されたに等しい状態になっています。

しかし、今その復活の灯りが見え始めています。その灯りとは、「ミョウバン」です。ミョウバンの歴史をたどることによって、サモスの復活、エピクロスとアリスタルコスの復活が可能となると思います。

2014年6月4日水曜日

ミョウバン研究日記

「ミョウバン研究日記(2014.6.4)

今日も、チャールズ・シンガー著
『最も初期の化学産業=ミョウバンの歴史』
を読んでいます。

ミョウバンといえば、今では漬物の色落ち防止や、
生ウニの型崩れ防止に使われるくらいです。
しかも、食品添加物が敬遠される雰囲気の中、
ミョウバンの使用は減る一方でしょう。

それは仕方がないとしても、
このままミョウバンの歴史的な意味までも、
忘れさられていくのは、残念です。

ミョウバンが「科学の歴史」において果たした役割は、
いくら強調しても、強調しすぎることはないと思います。

しかし、そのことは多くの人に知られてはいないようです。
少しでも、ミョウバンの歴史的な重要性が伝えられれば、うれしいです。

【シンガーの本から、今日学んだこと】
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紀元前1550年頃に書かれたと思われるパピルスが、数枚見つかっていて、解読されています。ほぼ同じ内容で、ミョウバンの使い道が記されています。
さて、その使い道は?

ミョウバンは、目薬として重要だったようです。
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【私の意見】
しかし、最初から目薬として使われたとは考えられません。
最初は、「水の浄化」に使われたことでしょう。
実際、ミョウバンが持つ「水の浄化能力」は、すごいです。

きれいになった水で、目を洗うこともあったことでしょう。
ミョウバンで浄化された水で洗うと、
普通のきれいな水と比べて、予想外の効果があったのでしょう。

実際、ミョウバン水は、弱酸性なので、殺菌効果があり、
目の治療に効果があるのです。
後のローマ時代には、うがい薬や扁桃腺の腫れを治める薬としても、
使われるようになります。

2014年6月3日火曜日

ミョウバン研究日記

「ミョウバン研究日記(2014.6.3)

今週も、今日明日と京都大学人文科学研究所に
お邪魔して、終日、
Charles Singers著
『The Earlist Chemical Indaustry』
を読みます。

このタイトルの付け方、
あまり好きじゃなくて、
この本はズバリ
『The History of Alum(ミョウバン)』だと思います。

しかし、
このCharles Singersという人は素晴らしい人で、
『技術の歴史』(全10巻、筑摩書房)の代表編集者でもあります。

『技術の歴史』も素晴らしい本ですが、
その本の編集者が、
別個に、『The Earlist Chemical Indaustry』
(明礬の歴史)を書く訳ですから、
ミョウバンの重要性が伝わってくるような気がします。

2013年5月17日金曜日

緒方洪庵のてがみ

緒方洪庵、箕作秋坪(江戸)への手紙、1860(万延元)年10月15日 「北京陥落(西暦9月13日英仏連合軍北京を占領)清帝も出奔のよし。さてさて大歎息のいたりです。プロイセン軍艦もいまだ去かぬよし。お役人も心配ことと思います。いずれ各国がつぎつぎと来るでしょう。こまったものです」 (『緒方洪庵のてがみ その1』菜根出版、1980、p333) 北京陥落というのは、第二次阿片戦争による、英仏軍の北京侵攻のことです。イギリスもフランスも略奪、焼却行為に及び、互いのその行為を非難しあったそうです。そういう清国の危機的な状況の様子は、緒方洪庵のところにも、届いていたということです。

「緒方洪庵のてがみ」

『緒方洪庵のてがみ』(全5巻、菜根出版、1980) という本があります。 山片蟠桃の、緒方洪庵への影響の痕跡を探すために、読み始めた(身始めた)のですが、驚きました。立派な本なのです。作った人たちの思いがこもっています。山片蟠桃の影響を探すなんてことではなく、この本の内容だけでも、読む(見る)価値があります。素晴らしい本に出会えました。後世の人たちに、これだけの本を生み出させた「緒方洪庵の偉大さ」に思いが募っています。 「だがしかし」、です。 緒方洪庵の家と山片蟠桃の家は、同じ町内という感じです。影響はあったと確信しています。