2013年5月17日金曜日
「緒方洪庵のてがみ」
『緒方洪庵のてがみ』(全5巻、菜根出版、1980)
という本があります。
山片蟠桃の、緒方洪庵への影響の痕跡を探すために、読み始めた(身始めた)のですが、驚きました。立派な本なのです。作った人たちの思いがこもっています。山片蟠桃の影響を探すなんてことではなく、この本の内容だけでも、読む(見る)価値があります。素晴らしい本に出会えました。後世の人たちに、これだけの本を生み出させた「緒方洪庵の偉大さ」に思いが募っています。
「だがしかし」、です。
緒方洪庵の家と山片蟠桃の家は、同じ町内という感じです。影響はあったと確信しています。
2013年2月16日土曜日
ネットで百科、活動停止
平凡社『世界大百科事典』が、3分間だけは無料で見ることができる「ネットで百科」というサービスがあります。とてもありがたいサービスです。ところが今日利用してみると、今年の6月一杯で活動停止だそうです。無料サービスだけでなく、有料サービスも含めた全体の営業停止だそうです。驚きました。「いったい何故?」と思いました。小学館の『日本大百科全書』がヤフーで無料で公開されていることが原因かと思いましたが、違うと思い直しました。ウキペディアを含めたネット情報が一番の原因かと思います。実際ある項目について、『世界大百科事典』『日本大百科全書』『ウキペディア』そして英語版『Wikipedia』をひきくらべてみると、その差は歴然です。「専門家と評価してもらえることの難しさ」を感じます。ただ、百貨事典の場合、字数制限も影響するのでしょうが。最近のウキペディア、特に英語版、仮説実験授業の授業書にちかいものを感じます。多くの人に読んでもらい、自由に批判・意見・提言を言ってもらえる情況のなかで進歩していくのでしょう。自著《オリンピックと平和》読んでいただいた方がまず言われることは、「読みやすい」です。その瞬間作成に関わっていただいた多くの方々の顔が次々と浮かんできます。授業を受けてくれた何万人という子どもたちの顔が浮かびます。「大衆消費財が世界を変える」。愛知の岸さんに教えてもらった言葉です。文化のあり方も変わっていくことでしょう。仲間に一人、たくさんの本を出している人がいます。作者と編集者だけの世界で次々と本が出来上がっていくことに、不安を感じます。仮説実験授業、そして仮説実験授業研究会、改めてすごいものだと思いました。
2013年2月15日金曜日
金星研究
久し振りの投稿です。
「スタディオン」という言葉を聞いたことがありますか。
今日の競技場、スタディアムの語源となりました。
古代オリンピアの会場、ギリシアのオリンピアに
作られた短距離走の直線コースを
「1スタディオン」と言ったようです。
てっきりギリシア語が語源と思っていましたが、
違っていました。メソポタミア起源だそうです。
考えてみれば、金星情報も、日食の周期であるサロス情報も、
メソポタミア起源なので、「納得」という感じです。
『ウキペディア情報』
スタディオンはバビロニア起源の単位である。
その距離は、砂漠において太陽の上端が地平線に現れてから、
下端が地平線を離れるまでの間に
人間が太陽に向かって歩く距離と定義されている。
その人の歩行能力に依存した一種の身体尺であるが、
おおむね180メートル前後となる。
言い変えれば、
スタディオンは太陽がその視直径分だけ移動する間に
人間が歩行する距離である。
太陽の視直径(見た目の角度)は約0.5度(正確には32分)であり、
その角度を移動する時間は約2分である。
太陽は1日で1周(=360度)するので、
1日に人が歩ける距離は360/0.5=720スタディオン、
1時間の歩行距離は約30スタディオンということになる。
(引用ここまで)
メソポタミアすごい!
という感じです。
2011年9月26日月曜日
ギリシアの神殿の話
○ギリシア神殿を定義
ギリシア神殿を見たことがありますか。
アテネにあるパルテノン神殿は見たことがあるという
人は多いのではないでしょうか。
しかし、エーゲ海の周辺には実はたくさんのギリシア神殿があります。
ギリシア神殿を定義すると、次のようになります。
「切妻(きりづま)屋根をもつ長方形の神殿」
(出典:日本大百科全書)
切妻屋根とは、三角形の屋根のことです。
○ギリシア神殿の種類
ギリシア神殿は、その柱の形によって、
3つの種類に分けられています。
ドーリス様式
イオニア様式
コリント様式
の3種類にです。
では、その3つの種類の神殿の内部は、
それぞれ違うと思いますか。
それとも、同じと思いますか
予想
ア 違うと
イ 同じ
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
○ギリシア神殿の内部
正解は、「同じ」です。
ギリシア神殿は、柱の形が違っていても、
内部はみんな同じで、次のような
構造になっていました。
前室(プロナオス)
主神を安置する主室(ナオス)
その背後の後室(オピストドモス)
今では、ギリシア神殿と言えば、
柱しか話題にならず、実際柱しか
残ってないのですが、
実は1000前後あったと言われる
神殿にはそれぞれ、
主神を安置する主室があり、
そこにはおそらく
金と象牙でできた神像が
あったと思われます。
では、その1000前後の
神像は、どこに消えたのでしょうか。
像は壊せても、
金と象牙は残ります。
その物質は、いったい何に姿を変えたのでしょうか。
○おまけの話「ギリシア神殿とローマ神殿の違い」
「ギリシアとローマの神殿の基本的な相違は、
ギリシアの神殿がつねに東を正面として3段の低い基壇の上に建っているのに対し、
ローマのそれはとくに決まった方向性がなく、
正面には高い階段が設けられている。
さらにローマ時代の建築を特徴づけるアーチ式工法の採用から、
パンテオンのような壮大な円形神殿も造営された」
ということです。日本大百科全書からの引用でした。
○ギリシア神殿を定義
ギリシア神殿を見たことがありますか。
アテネにあるパルテノン神殿は見たことがあるという
人は多いのではないでしょうか。
しかし、エーゲ海の周辺には実はたくさんのギリシア神殿があります。
ギリシア神殿を定義すると、次のようになります。
「切妻(きりづま)屋根をもつ長方形の神殿」
(出典:日本大百科全書)
切妻屋根とは、三角形の屋根のことです。
○ギリシア神殿の種類
ギリシア神殿は、その柱の形によって、
3つの種類に分けられています。
ドーリス様式
イオニア様式
コリント様式
の3種類にです。
では、その3つの種類の神殿の内部は、
それぞれ違うと思いますか。
それとも、同じと思いますか
予想
ア 違うと
イ 同じ
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
○ギリシア神殿の内部
正解は、「同じ」です。
ギリシア神殿は、柱の形が違っていても、
内部はみんな同じで、次のような
構造になっていました。
前室(プロナオス)
主神を安置する主室(ナオス)
その背後の後室(オピストドモス)
今では、ギリシア神殿と言えば、
柱しか話題にならず、実際柱しか
残ってないのですが、
実は1000前後あったと言われる
神殿にはそれぞれ、
主神を安置する主室があり、
そこにはおそらく
金と象牙でできた神像が
あったと思われます。
では、その1000前後の
神像は、どこに消えたのでしょうか。
像は壊せても、
金と象牙は残ります。
その物質は、いったい何に姿を変えたのでしょうか。
○おまけの話「ギリシア神殿とローマ神殿の違い」
「ギリシアとローマの神殿の基本的な相違は、
ギリシアの神殿がつねに東を正面として3段の低い基壇の上に建っているのに対し、
ローマのそれはとくに決まった方向性がなく、
正面には高い階段が設けられている。
さらにローマ時代の建築を特徴づけるアーチ式工法の採用から、
パンテオンのような壮大な円形神殿も造営された」
ということです。日本大百科全書からの引用でした。
2011年8月8日月曜日
板倉聖宣『科学者伝記小事典』(仮説社,2009)
p21)「アリスタルコスの項目」
古代ギリシアのサモス島で生まれ,アテナイで前288~270年の間,アリストテレス学派の学校で学んで帰ったという。
(秀樹曰く…志筑忠雄の真似をしています)
前288~270年というのは,
重要な18年間です。
というのも,
原子論を確立したエピクロスが269年に死去し,
後を追うように
真空の存在を実験で証明したストラトンが,
270年に死去しています。
ストラトンは,アリストテレス学派の
第3代学長ですが,
その学長が,アリストテレスの考えを
真っ向から否定する実験をしています。
これは,まさに学派を超えた
科学者的な研究姿勢だと思います。
そういうストラトンに,
地動説を発見したアリスタルコスは,
学んでいるのです。
しかも,
アリスタルコスは,
エピクロスと同じサモス島出身でした。
人間として,同郷の人に対して
親しみを感じるのは,昔も今も同じではないでしょうか。
しかも,
ストラトンは,出身地ランプサコスで
エピクロスに学んでいるのです。
この三者が,
この18年間で,
アテナイで
原子論と地動説を確立したでのはないでしょうか。
今まで誰も語ったことのない事実ではないかと思います。
新しい古代のギリシア,
新しい科学の歴史,
そして
新しくて,楽しい哲学の歴史を
生み出すことができそうです。
9月18日(日)に
東京で発表します。
p21)「アリスタルコスの項目」
古代ギリシアのサモス島で生まれ,アテナイで前288~270年の間,アリストテレス学派の学校で学んで帰ったという。
(秀樹曰く…志筑忠雄の真似をしています)
前288~270年というのは,
重要な18年間です。
というのも,
原子論を確立したエピクロスが269年に死去し,
後を追うように
真空の存在を実験で証明したストラトンが,
270年に死去しています。
ストラトンは,アリストテレス学派の
第3代学長ですが,
その学長が,アリストテレスの考えを
真っ向から否定する実験をしています。
これは,まさに学派を超えた
科学者的な研究姿勢だと思います。
そういうストラトンに,
地動説を発見したアリスタルコスは,
学んでいるのです。
しかも,
アリスタルコスは,
エピクロスと同じサモス島出身でした。
人間として,同郷の人に対して
親しみを感じるのは,昔も今も同じではないでしょうか。
しかも,
ストラトンは,出身地ランプサコスで
エピクロスに学んでいるのです。
この三者が,
この18年間で,
アテナイで
原子論と地動説を確立したでのはないでしょうか。
今まで誰も語ったことのない事実ではないかと思います。
新しい古代のギリシア,
新しい科学の歴史,
そして
新しくて,楽しい哲学の歴史を
生み出すことができそうです。
9月18日(日)に
東京で発表します。
2011年7月28日木曜日
古代のギリシアの神像の破壊はコンスタンティヌスから始まっていた
研究のあゆみ:7月28日(木)-② 早朝自宅にて
『世界伝記大百科事典Ⅳ』(桑原武夫編集,ほるぷ出版,1982)
「コンスタンティヌス1世」の項目
p326)
異教の神々への供犠が続けられる一方で,
2,3の神殿は閉鎖を命じられ,
神殿を破壊したキリスト教信者の暴徒も,
当局から罰せられなかった。
コンスタンティヌス自身も,
若干(?…吉田の気持ち)の神殿の略奪に関与し,
金と象牙を被せてあった神像の木身しか
異教の信者には残されなかった。
この略奪の本当の理由は,
コンスタンティヌスが執心していた
建築事業の資金を補充するため,
神像の金,銀の被膜が必要であったらしい。
『世界伝記大百科事典Ⅳ』(桑原武夫編集,ほるぷ出版,1982)
「コンスタンティヌス1世」の項目
p326)
異教の神々への供犠が続けられる一方で,
2,3の神殿は閉鎖を命じられ,
神殿を破壊したキリスト教信者の暴徒も,
当局から罰せられなかった。
コンスタンティヌス自身も,
若干(?…吉田の気持ち)の神殿の略奪に関与し,
金と象牙を被せてあった神像の木身しか
異教の信者には残されなかった。
この略奪の本当の理由は,
コンスタンティヌスが執心していた
建築事業の資金を補充するため,
神像の金,銀の被膜が必要であったらしい。
アリスタルコスがストランに学んだ場所は?
ひさしぶりのブログです。このシリーズ,しばらく続けます。読んでいただけると,うれしいです。
研究のあゆみ:7月28日(木) 早朝自宅にて
『世界伝記大百科事典Ⅰ』(桑原武夫編集,ほるぷ出版,1982)
「アリスタルコス(前310頃~230)」の項目
p222)
アリスタルコスはサモス島に生まれた。アテナイに行き,紀元前288年(または287年)(22歳前後)から前270年(または269年)(40歳前後)まで,ペリパトス学派主宰者ランプサコスのストラトンの下で学んだ。
*************************
(秀樹曰く)この情報は貴重です。というのも,今まで私は,「地動説を発見したアリスタルコスが,真空の実在を実験的に証明したストラトンに学んだのは,アレキサンドリアだ」と勝手に思い込んでいたからです。師ストラトンは,ランプサコスで,原子論を確立したエピクロスに学んでいます。ということは,紀元前288年から前270年の間(270年エピクロス死去,後を追うように同じ年ストラトン死去),アテナイで,にエピクロスとストラトンとアリスタルコスがともに生きて,ともに学んでいたことになるではないですか。地中海中に支持者が広がったエピクロスの教え。そして衰退する一方のアリストテレスの教え。一体,どんな思いを抱いて,アリスタルコスは,アレクサンドリアに赴いたことでしょう。
研究のあゆみ:7月28日(木) 早朝自宅にて
『世界伝記大百科事典Ⅰ』(桑原武夫編集,ほるぷ出版,1982)
「アリスタルコス(前310頃~230)」の項目
p222)
アリスタルコスはサモス島に生まれた。アテナイに行き,紀元前288年(または287年)(22歳前後)から前270年(または269年)(40歳前後)まで,ペリパトス学派主宰者ランプサコスのストラトンの下で学んだ。
*************************
(秀樹曰く)この情報は貴重です。というのも,今まで私は,「地動説を発見したアリスタルコスが,真空の実在を実験的に証明したストラトンに学んだのは,アレキサンドリアだ」と勝手に思い込んでいたからです。師ストラトンは,ランプサコスで,原子論を確立したエピクロスに学んでいます。ということは,紀元前288年から前270年の間(270年エピクロス死去,後を追うように同じ年ストラトン死去),アテナイで,にエピクロスとストラトンとアリスタルコスがともに生きて,ともに学んでいたことになるではないですか。地中海中に支持者が広がったエピクロスの教え。そして衰退する一方のアリストテレスの教え。一体,どんな思いを抱いて,アリスタルコスは,アレクサンドリアに赴いたことでしょう。
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